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文明論

2009年3月 7日 (土)

西洋文明の実態

 The New Ageという英字誌に、この問題を扱った漫画が掲載されました。ここに再掲します。行進する軍隊が描かれています。背後にはグロテスクな人物、大将がいます。このひどい図体の人物は、拳銃をぶら下げ、あらゆる方向に硝煙をまき散らしています。そして、剣からは、血が滴っています。頭には大砲が乗り、片方にぶら下がっているバッヂには、骸骨の絵が描いてあります。その上、腕には十字架がぶら下がっています(この十字架は、負傷者救護隊の記章です)。口には血が滴る短剣を歯でくわえています。肩には実弾を装着したベルトをかけています。この絵には、「文明の行進」という題がついています。この漫画の情景描写を読んだ読者は皆、深刻な面持ちになることでしょう。よく考えてみれば、この漫画の男の顔に現れているひどい表情と同じぐらい、あるいはそれ以上に残虐なのが、西洋文明であると感じないわけにはいきません。人を最も憤らせる光景は、血が滴る武器の真ん中にある十字架です。ここにおいて、この文明の偽善ぶりが最高点に達しています。前の時代にも、血なまぐさい戦争はありました。しかし、近代文明の偽善には、染まっていませんでした。読者の注意をこの漫画に向けながら、同時にサティヤーグラハ(真理を宣言しそれに固く立つこと=非暴力・不服従運動)の神々しいかすかな光も、お目にかけたいと思います。まず、上にあげました文明の絵をご覧になってください。狼のように残虐になった文明です。富に飢え、欲望の赴くままに、この世的な楽しみを追求しています。他方、サティヤーグラハの闘士の姿を思い浮かべてください。真理に対する忠誠心から、霊的な存在としての自分の本質に忠実でありたいという思いから、そして、神の命令に従いたいという強い気持ちから、邪悪な人々によって加えられる苦悩を甘受しています。胸には不屈の精神をたたえ、顔には微笑みを浮かべ、目には一滴の涙も見せていません。この2つの絵のどちらに読者は魅かれるでしょうか。人の胸を打つのはサティヤーグラハ闘士の姿に決まっています。そして、その闘士の苦悩が増大するほど、その影響力は深く浸透していきます。この漫画を見ただけでも、サティヤーグラハこそ、人類が自由と力を獲得できるただひとつの方法であると、心に感じないような人がいるでしょうか。もちろん、他者を撃ち殺そうとして、撃たれて死んだり、絞首刑に処せられたりする場合にも、確かに不屈の精神が試されることは、認めねばなりません。しかし、他者を殺そうとして死んでいく場合には、サティヤーグラハ闘士が苦悩を甘受するのに比べたら、100分の1の気概と勇気で十分です。サティヤーグラハ闘士は、ゆっくりと、引き延ばされる責め苦の中にあって、銃を突きつけられた状態で、1発も発砲し返すことなく、冷静に耐えています。サティヤーグラハの力を圧倒するほど力強く剣をふるえる人はいません。それどころか、剣を振りかざす人は、それよりももっと鋭い剣を突きつけられて、退却するしかありません。だからこそサティヤーグラハ闘士の物語は、尊敬の念をもって読まれるのです。サティヤーグラハを実践するほどの強さを持っていない人は、当然、野蛮な力を振るいたくなります。サティヤーグラハに比べれば、こちらの方がはるかに容易に用いることができます。インド独立にこだわるあまり、サティヤーグラハもやがては野蛮な力の行使に行き着くに相違ないと思っているような、自暴自棄なインド人もいます。つまり、サティヤーグラハとは、暴力の熱狂へと興奮していく第一段階に過ぎないと考えているのです。このように考える人を、井の中の蛙にたとえても、それほど的外れではないでしょう。蛙は、非常に大きな井戸が海だと思っています。サティヤーグラハで求められる忍耐力を最大限まで高めようとすることのできない人は、我慢できずに野蛮な力に向かってしまうのが、現実です。そして、やけになって、自分の苦しみを早く終わらせるために、闇雲の突撃します。このような人は、サティヤーグラハ闘士では決してありません。その人は、サティヤーグラハが何かを理解しようとは思いません。
インディアン・オピニオン 1910年4月2日

An English journal called The New Age has published a cartoon on this subject, which we reproduce in this issue. It shows an army on the march. Behind, there is a grotesque figure, that of a general. On the body of this terrible form are hanging a gun emitting smoke in every direction and swords dripping with blood, and on its head a cannon. There is the drawing of a skull on a badge hanging on one side. On the arm, moreover, there is a cross. (This cross is the emblem of a batch which looks after the wounded.) In the mouth, held in the teeth, there is a dagger dripping with blood. On the shoulder is seen a belt studded with live cartridges. The drawing is entitled “March of Civilization”. No one who reads this description of the cartoon can help becoming grave. On reflection, we cannot help feeling that Western civilization is as cruel as, perhaps more cruel than, the terrible expression on the face of the man in the cartoon. The sight which fills one with the utmost indignation is that of the cross in the midst of weapons dripping with blood. Here the hypocrisy of the new civilization reaches its climax. In former times, too, there used to be bloody wars, but they were free from the hypocrisy of modern civilization. While drawing our readers, attention to this cartoon, we want to give them at the same time a glimpse of the divine light of satyagraha. On one side, look at the picture of civilization drawn above, a civilization grown as terrible as a wolf through its hunger for wealth and its greedy pursuit of worldly pleasures. On the other, look at the figure of a satyagrahi who, out of his loyalty to truth, to his nature as a spiritual being and out of a desire to obey God's command, submits to the suffering inflicted by wicked men, with fortitude in his breast, with a smile on his face and without a single tear in his eyes. Of the two pictures, towards which will the reader feel attracted? We are sure it is the vision of the satyagrahi which will touch the heart of mankind, and that the effect will grow deeper as his sufferings increase. Is there anyone who, looking at this cartoon alone, does not feel in his heart that satyagraha is the only way in which mankind can attain freedom and strength? We admit, of course, that to be shot dead or hanged when trying to shoot another does test one's fortitude; but dying in the attempt to kill another does not require even a hundredth part of the fortitude and courage implicit in the suffering that a satyagrahi goes through, in the slow, prolonged torture that he calmly endures in facing a bullet without firing one in return. No one wields a sword strong enough to bear down the force of satyagraha; on the contrary, a man brandishing a sword of steel has to give ground when confronted by a sword sharper than his. That is the reason why the story of a satyagrahi is read with a feeling of reverence. One who is not strong enough to practise satyagraha is naturally tempted to resort to brute force, which is, in comparison, quite easy to employ. There are some desperate Indians who, in their mad obsession with swaraj for India, seem to imagine that satyagraha is bound to be followed by resort to brute force---that is, that satyagraha is but one step in the effort to key oneself up to the fanaticism of violence. It would not be wrong to compare persons holding such views to the frog in the well who sought to conceive the ocean [as a big, big well]. The truth of the matter is that the man who cannot cultivate to its utmost limit the capacity for endurance required in satyagraha turns in his impatience to brute force and, growing desperate, takes a blind leap in an effort to end his suffering quickly.  Such a man has never been a satyagrahi. He does not want to understand what satyagraha means.
[From Gujarati]
Indian Opinion, 2-4-1910

2009年1月28日 (水)

空っぽの文明

 パリの惨劇(1903年8月10日のパリの地下鉄火災、84人が死亡し多くの負傷者を出した)は、そのニュースが届いたすべての地域を悲しみで一杯にしたに違いありません。亡くなられた方々や、生存者の気持ちは察して余りあります。我々にとってこのような思いもよらない出来事は、単なる事故ではありません。その気になれば、豊かな教訓を学ぶことのできる神の差配であると、我々は考えます。近代文明のあらゆるきらびやかさの背後にある恐ろしい悲劇を、我々に示しているのです。我々は、とどまるところを知らない慌しさの中で、暮らしています。そのために、しばらくの間パリが喪に服することになるこのような出来事が、一体何をもたらすのかを、十分に時間をとって考えることができなくなっています。亡くなった方々のことは、やがて忘れさられます。そしてすぐにパリは、まるで何事もなかったかのように、いつもの活気をとり戻します。しかし、この事故について、頭をかすめる以上に、思いをめぐらせてみる人々は、きらびやかで、華やかな外観の影で、実体あるものがことごとく欠けていることに気づかないわけにはいきません。我々にとって、この意味することは明白です。つまり、我々は皆、未来に備えるためだけに現在を生きなければならなくなっているのです。未来よりも現在の方が、はるかに確かで、現実であるというのにです。確かさを得るために近代文明が提供するどんなものによっても、もともと不確かであるものを、確かにすることができるはずはありません。そのことに思い至るならば、驚くような発見や、素晴らしい発明の数々を自慢してみたところで、それ自体は良いものであったとしても、結局は空っぽなのです。悩み苦しむ人類に、実質的なものは何も提供してくれません。このような不意の出来事に慰めを見出すには、しっかりとした信仰にしか拠り所はありません。それも理論としてではなく、事実として来世および神の存在を信じる信仰です。そして、そのような信仰だけが、持つ価値があるものであり、養っていく価値があるものです。それによって、我々は自分たちを造られた神がわかるようになり、結局我々は、地上に一時滞在しているに過ぎないと気づくのです。
インディアン・オピニオン 1903年8月20日

The catastrophe at Paris(1) must have filled all the portions of the globe where the news reached with gloom. We can well imagine the feelings of the victims and the survivors. To us, these untoward happenings are not merely accidents but we look upon them as divine visitations from which we, if we chose, may learn rich lessons. To us, they show a grim tragedy behind all the tinsel splendour of the modern civilization. The ceaseless rush in which we are living does not leave any time for contemplating the full results of events such as have placed Paris in mourning for the time being. The dead will be soon forgotten, and in a very short time, Paris will again resume its usual gaiety as if nothing whatsoeverhad happened. Those, however, who will give the accident, if so it may be called, more than a passing thought, cannot fail to realize that behind all the splendour and behind all the glittering appearances there is something very real which is missed altogether.  To us, the meaning is quite dear, namely, that all of us have to live the present life merely as a preparation for a future, far more certain and far more real. Nothing that the modern civilization can offer in the way of stability can ever make any more certain that which is inherently uncertain; that, when we come to think of it, the boast about the wonderful discoveries and the marvellous inventions of science, good as they undoubtedly are in themselves, is, after all, an empty boast. They offer nothing substantial to the struggling humanity, and the only consolation that one can derive from such visitations has to come from a firm faith not in the theory, but in the fact, of the existence of a future life and real Godhead. And that alone is worth having or worth cultivating which would enable us to realise our Maker and to feel that, after all, on this earth we are merely sojourners.
Indian Opinion, 20-8-1903
(1) A disastrous fire in the underground Electric Railway on 10 Aug. 1903, in which eighty-four personw were killed and many injured.

2008年11月 1日 (土)

工業化に代わるもの

次のような投稿がありました。
 「船舶、汽車、飛行機などをインドが製造するような、インドの工業化が必要だと考えていらっしゃいますか? 必要ないとすれば、インドが自由な独立した国家として責任を果たしていく、それに代わる手段を提示していただけないでしょうか。
 また、ここにあげたような産業を確立すべきだと思われるのであれば、その産業およびそこから生じる利益を管理していくのは、あなたのお考えでは、どのような主体であるべきでしょうか」

 どのような国のどの場合においても、工業化が必要であるとは思いません。インドについてはなおのこと必要でありません。独立したインドがこの喘いでいる世界に対して義務を果たす道は、大多数の国民がつつましい家屋(手工業)をきちんと整え世界と平和に付き合っていくことで、質素な中にも高潔な生き方を取り入れていくことでしかありません。高邁な思索は、物に囲まれた複雑な生活とは両立しません。そのような生活は時間に追われるからです。お金を第一にすれば能率が求められるのは避けられませんが、高潔に生きる術を身に付けて初めて我々は、人生のあらゆる魅力を享受することができるようになります。
 危ない生き方をすることに、興奮を覚えるかもしれません。危険に面と向かって生きることと危ない生き方をすることとを、きちんと区別する必要があります。野生の獣や野蛮な人が潜む森の中で一人、銃も持たずに神だけを助けとして勇気を持って生活する人は、危険に面と向かって生きています。いつも空中で生活して、世界をあっと言わせてやろうとして下界に飛び降りるような人は、危ない生き方をしている人です。前者は目的がありますが、後者は目的もなく生きています。
 重装備をした世界に面と向かい、仰々しさに囲まれているのですから、どれだけ広大な面積と人口を抱えていてもたった一つの国が、そのような質素な生き方取り入れていけるのだろうかと考えるのは、懐疑論者が考えがちな疑問です。この疑問に対する答えはきっぱりと単純なものです。質素な生活が価値ある生き方であるなら、それを目指すことも価値ある試みなのです。そのような努力をするのがたった一人であろうと、一グループであったとしてもです。
 同時に私は、重要な工業のいくつかは必要であると考えます。理論だけのまたは、武装した社会主義というものを私は支持しません。私は、大多数の改心を待つことなく自分の信念に基づいた行動をすべきだと考えます。ですから、重要な工業というものを列挙する必要はありません。多くの人が一緒に働いて成り立つような国有を目指したいです。人々の労働によって生産された物は、国家を通して熟練工かどうかの区別なく労働者に、分け与えられます。ただし、私が思い描けるのは、非暴力を基盤にした国家だけですから、武力によって金持ちの所有物を奪うことはしません。国有へと変換していく過程で、彼らが協力してくれるようにお願いしたいと思うのです。大金持ちであろうと貧乏人であろうと、社会のはみ出しものは存在しません。金持ちも貧乏人も、同じ病気がもたらした傷みです。「その全てをひっくるめて」全ての人が人間です。
 インドでも他の地域でも目にしてきたし、これからも目にするであろう非人道的行為を直視してなおこの信念を、私は高らかに宣言します。危険に面と向かって生きようではありませんか。
ハリジャン 1946年9月1日

ALTERNATIVE TO INDUSTRIALISM
A correspondent writes :
Do you then believe that industrialization of India--to the extent of India producing her own ships, locomotives, aeroplanes, etc.,--is necessary? If not, will you kindly suggest the alternative means by which India shall discharge her responsibilities as a free and independent nation?
  If you believe in the establishment of such industries, who should, in your opinion, exercise control over the management and the profits that will accrue?

  I do not believe that industrialization is necessary in any case for any country. It is much less so for India. Indeed, I believe that Independent India can only discharge her duty towards a groaning world by adopting a simple but ennobled life by developing her thousands of cottage [industries] and living at peace with the world. High thinking is inconsistent with complicated material life based on high speed imposed on us by Mammon worship. All the graces of life are possible only when we learn the art of living nobly.
  There may be sensation in living dangerously. We must draw the distinction between living in the face of danger and living dangerously. A man who dares to live alone in a forest infested by wild beasts and wilder men without a gun and with God as his only Help, lives in the face of danger. A man who lives perpetually in mid-air and dives to the earth below to the admiration of a gaping world lives dangerously. One is a purposeful, the other a purposeless, life.
  Whether such plain living is possible for an isolated nation, however large geographically and numerically in the face of a world armed to the teeth and in the midst of pomp and circumstance, is a question open to the doubt of a sceptic. The answer is straight and simple. If plain life is worth living, then the attempt is worth making even though only an individual or a group makes the effort.
  At the same time I believe that some key industries are necessary. I do not believe in armchair or armed socialism. I believe in action according to my belief, without waiting for wholesale conversion. Hence, without having to enumerate key industries, I would have State ownership where a large number of people have to work together. The ownership of the products of their labour, whether skilled or unskilled, will vest in them through the State. But as I can conceive such a State only based on non-violence, I would not dispossess monied men by force but would invite their co-operation in the process of conversion to State ownership. There are no pariahs of society, whether they are millionaires or paupers. The two are sores of the same disease. And all are men “for a’ that”.
  And I avow this belief in the face of the inhumanities we have witnessed and may still have to witness in India as elsewhere. Let us live in the face of danger.
ON THE TRAIN TO DELHI, August 25, 1946
Harijan, 1-9-1946

2008年10月30日 (木)

質素な生活と高邁な思索

「理想的な社会とは、最小の労働で、必要なものをどんどん増し加えていくような生活をすべての個人が送ることができる、そういう社会である」

 このように、アフマダーバードの友人が書いてよこしました。この命題は、心地よく、多くの人が受け容れそうなまことしやかな主張に裏付けられています。・・・この世のすべての人が、最小限の労働で可能な限り最高の生活水準を維持できるはずだとするのは、ラクダが針の穴を通ると期待するくらい空想的なことです。この人が言う高い生活水準とは、贅沢な生活のことのようです。これを社会全体で達成するのは、どんな社会でも不可能です。贅沢に限度がなければ、一体我々はどこで止まればよいのでしょうか。世界のあらゆる聖典が、全く正反対のことを教えています。質素な生活と高邁な思索(ワーズワースの言葉)というのが、我々の前に提示されている理想です。大半の人が、これが真理であることを認識しています。しかし、人間が弱いためにその理想に到達できないでいます。しかし、そのような存在を心に描くことは全く問題なくできます。何千万人ものインド人に、ある金額の収入が保証されるべきであるのは、確かに正論です。そして、この理想を達成するには、大型機械は不必要であるばかりでなく、実に有害でさえあるのです。
 人は、日常の欲求をますます増やしていこうと思ったとたん、質素な生活と高邁な思索という理想を求めることをやめてしまいます。このような例は歴史を振り返ればたくさんあります。人の幸福は、実際には満足することにあります。満足していない人は、たとえどれほど多くのものを所有していても、自分自身の欲望の虜になっております。欲望の虜に匹敵するほどの奴隷状態は他にありません。自分自身が最良の友となることもありますが、同時に最大の敵になることもあると賢者は皆公言しています。自由でいるか、奴隷に成り下がるかを決めるのは自分自身です。そして個人についてあてはまることは、社会についてもあてはまります。
セワグラム 1940年10月9日
ハリジャン 1942年2月1日

PLAIN LIVING AND HIGH THINKING

An ideal society is that in which every individual will be able to live a life of progressively increasing wants with a minimum output of labour.

  Thus writes a friend from Ahmedabad. The proposition is pleasing and is backed by plausible argument which many may accept. ・・・That everyone in this world should be able to maintain as high a standard of life as possible with the least possible output of labour is just as fantastic as to expect a camel to pass through the eye of a needle. The writer’s high living would appear to mean luxurious living which is an impossible proposition for any society as a whole. And when there is no limit to luxury where shall we stop? All the scriptures of the world have taught the exact opposite.  Plain living and high thinking is the ideal that has been placed before us. The vast majority recognize its truth but are unable to get there because of human frailty. It is, however, perfectly possible to envisage such an existence. That the crores in India should be guaranteed a certain income is only right, and to achieve this ideal large-scale machinery is not only not necessary but wholly destructive.
  Man falls from the pursuit of the ideal of plain living and high thinking the moment he wants to multiply his daily wants. History gives ample proof of this. Man’s happiness really lies in contentment.  He who is discontented, however much he possesses, becomes a slave to his desires. And there is really no slavery equal to that of his desires. All the sages have declared from the house-tops that man can be his own worst enemy as well as his best friend. To be free or to be a slave lies in his own hands. And what is true for the individual is true for society.
SEVAGRAM, October 9, 1940
Harijan, 1-2-1942

2008年9月18日 (木)

貧者のスワラージ(自治・独立)

労働組合に宛てたスピーチ、アーメダバード  1931年3月11日
 あなた方のことを思うこの気持ちが、あなた方のところに届きますように。我々の間の愛情がより強固となり、あなた方と私の間にどんな相違もないことに、気づいていただけますようにと、私は神に祈っております。私は大金持ちとも付き合いがあります。彼らの親切なもてなしを受けています。しかし、私の心はいつもあなた方とともにあります。私をあなた方から隔てることがありませんように、そして貧しい人々への奉仕のために、私がこの命を捧げることができますようにと、私は神に熱い祈りをささげています。
 私が思い描くスワラージ(自治・独立)は、貧者のスワラージであると、あなた方は本当に的を射た声明をされました。生活必需品は、君主や大金持ちが享受するのと同じように、あなた方も享受できねばなりません。しかし、だからといって、彼らのような大邸宅を持たねばならないということではありません。そのようなものは、幸せになるために必要ではないのです。あなたも私も、そのようなものの中では、自分を見失ってしまうでしょう。通常の生活に必要な便益については、金持ちが享受しているのと同じようにあなた方もすべて得る必要があります。スワラージのもとで、これらの必要な便益が保証されないのであれば、スワラージもプールナ・スワラージ(完全自治・完全独立:1927年12月にマドラスで開かれた会議派年次大会で初めて採択された対英国要求)ではないということに、私は少しも疑問をいだきません。我々がいつプールナ・スワラージを獲得できるかはわかりません。しかし、我々はそのために全力を注いでいかねばなりません. . . .
 あなた方の働きによって、世界中にあなた方のことが知られるようになりました。西洋の学生らは、あなた方の組織の美しさに目を見張っています。そして、研究しようとしています。あなた方の労働組合は、独特であると彼らは感じています。労働組合のメンバーは、自分たちの権利を守るために油断なく警戒しています。そして、そのためには自分たちの命を捧げる覚悟もしています。しかし、組合員を導く組合の指導者は、資本家に対してどんな敵意も抱いていないのです。資本家の幸福と力の中に、あなた方は自らの幸福と力を見ています。そこに、あなた方の強さの秘密があります。外部の人々には、その立場が理解できません。彼らは、資本家と労働者を、搾取者と被搾取者であると考えてきたのです。西洋の人々の中には、資本家はみな生まれながらの人食い鬼であると見なす人もいます。しかし両者の間に本来もともと敵意がある必要もないのです。それは誤った概念です。資本家が、自分たちの富を誇りにしがちであるならば、労働者は、多数である強さを誇りにする傾向があります。我々は資本家と同じ熱情に揺り動かされ、酔いしれてしまいがちです。ですから、両者ともにそのような熱情から自由でありますようにというのが、我々の祈りにならねばなりません。どのような階級闘争によっても、アーメダバードの工場主と労働者の関係が損なわれることはないと、私は感じています。両者の間に今日存在する親密な関係が持続していくことを希望し、祈っています。
 しかし、あなた方を導く人が、ひそかに利己的な目的をいだいていないことが、成功の秘訣です。叶えたいと思うような賤しい利権を持っていないのです。それが、この組織の美点です。さらに、それによってこの労働組合は市民的不服従の闘争において積極的役割を果たすことができたのです。・・・
ヤング・インディア 1931年3月26日

SPEECH TO LABOUR UNION, AHMEDABAD   March 11, 1931
  As I think of you may heart goes out for you and I pray to God that the bond of affection between us may be stronger and that you may realize that there is no difference of any kind between you and me. I go about among mill-owners, I accept their hospitality, but my heart is always with you. It is my fervent prayer to God that He may never separate me from you, and that I may lay down my life in the service of the poor.
  You have in your statement rightly said that the swaraj of my dream is the poor man’s swaraj. The necessaries of life should be enjoyed by you in common with those enjoyed by the princes and moneyed men. But that does not mean that you should have palaces like theirs. They are not necessary for happiness, you or I would be lost in them. But, you ought to get all the ordinary amenities of life that a rich man enjoys. I have not the slightest doubt that swaraj is not purna swaraj until these amenities are guaranteed to you under it. I do not know when we will win it but we have all to strive for it. . . .
  Your work is making you known throughout the world.  Students from the West marvel at the beauty of your organization and try to make a study of it. Your Union strikes them as unique. The members of your Union are jealous of their rights, and are prepared to lay down their lives for them, but their leaders, who guide them, have no ill will against the capitalists. In their welfare and their power you see your own welfare and power. That is the secret of your strength. Outside people cannot understand your position. They have thought of capitalists and working men as exploiters and exploited.  All capitalists, according to some, are born ogres. But there need be no such inherent antipathy between the two. It is an erroneous notion.  If the capitalists are apt to be proud of their wealth, the working men are apt to be proud of their numerical strength. We are liable to be swayed and intoxicated by the same passion as the capitalists, and it must be our prayer that both may be free from that passion. I feel that no class war poisons the relations between the mill-owners and the working men in Ahmedabad. I hope and pray, that the present cordial relations may be maintained between them.
  But the secret of your success is that the men and women, who guide you, have no axes to grind. They have no base interest to serve.
  It is the beauty of this organization, moreover, that made it possible for the Union to take an active part in the civil disobedience movement.....
Young India, 26-3-1931

2008年9月12日 (金)

自ら苦難を引き受けること

インド国民会議派に宛てたメッセージ
 現在のところ、目の前にある仕事、つまり、トランスヴァール(南アフリカ)で展開されている闘争以外には、何も考えられる状況にはありません。インド国内各地にいらっしゃるインド人の方々には、この闘争の目的は国家的なことであり、インドの名誉を救うために闘争が行われているのだと、認識して下さることを希望します。私は間違っているかもしれません。しかし、公に主張することを躊躇するつもりはありません。これは、現代で最も偉大な闘争です。なぜなら、その目標も手段もこれ以上ないくらい純粋だからです。トランスヴァールに居住するインド人は、教養あるインド人がヨーロッパの人々と同じようにトランスヴァールに入国する権利を求めて闘っています。この闘争において、闘争者は、どんな個人的利益も求めていません。また、上に掲げた権利(植民地法によって今回初めて奪われたものです)を回復することで、何らかの物質的利得が生じる者もいません。トランスヴァールに居住するインドの息子たちは、純粋で単純な理想のために闘うことができることを示してくれています。救済を得るために採用した方法も、同様に純粋で単純なものです。どのような形、状態の暴力も完全に回避されています。自ら苦難を引き受けることだけが、持続する改革をなす唯一の本物かつ効果的な手段であると、彼らは信じています。憎しみに立ち向かい、克服するのに、彼らは愛をもってしようとしています。むき出しの肉体的な力に、魂の力で対抗しています。地上の統治者や制定法への忠誠は、神や神の掟への忠誠に比べれば2次的であると、彼らは考えています。良心を通して神の掟を解釈する際に、間違ってしまう可能性があることを彼らは認めています。そこで、神が定めた永遠の掟と矛盾すると彼らが考える、人が作った法律に抵抗したり、無視する場合は、法律によって定められた罰を甘受します。そして、自分たちの立場をよくしてくれるものとしては、時の働きと、人間性の最善の部分に信頼を置くのです。たとえ、彼らが間違っていたとしても、苦しみを受けるのは彼らだけですし、既存の秩序というものは持続します。この過程において、2500人を超えるインド人が、つまり、トランスヴァールにいるインド人居住者の半数以上が、あるいは、トランスヴァールに居住する見込みのあるインド人のうちの5分の1が、投獄されるという憂き目にあい、それに伴って、ひどい苦難を体験しました。何度も繰り返し刑務所に入れられた人もいました。多くの家族が困窮しました。人間であることを諦めるくらいなら、欠乏に耐えることを選択した商人が何人もいました。ついでながら、南アフリカではヒンズー教徒対イスラム教徒の問題も解決しました。南アフリカで我々は、互いに、もう一方がいなければやっていけないということに気づいたのです。イスラム教徒も、パールシー教徒(ゾロアスター教徒の子孫)も、ヒンズー教徒も、あるいは、出身州で分けたベンガル、マドラス、パンジャーブ、アフガニスタン、ボンベイの各出身者も、肩を並べて協力し合ってきました。
 このような闘争は、他のことを置いてとまでは言いませんが、国民会議派が最大の関心を寄せる価値がある闘争だと、私は申し上げたいのです。もしこのように言うことが無礼でないならば、この件と、会議派のプログラムにある他の項目とを区別したいと思います。他の項目が取り扱っている法律や政策への反対では、物質的な苦難は伴いません。会議派の活動は、それ相応の行動を伴わない精神的な態度でしかありません。トランスヴァールの件では、宣言された法律および政策が間違っているので、我々はそれを無視しています。そして、その結果、意識的、意図的に物質的、肉体的被害を受けています。我々は精神的な態度と一致する行動を起こしています。ここで述べた見方が正しければ、次のことも許されるでしょう。つまり、トランスヴァールの問題を会議派のプログラムで最重要課題に位置づけて欲しいと求めているからといって、無茶を言っているわけではないということです。次のことも述べさせていただきたいのですが、上で述べてきたような受動的抵抗について熟考し、注意を集中させてみてください。そうすれば、インドにおいて辛酸をなめている数多くの苦悩に対して、受動的抵抗が間違いのない万能薬であることを、見出す可能性だってあります。慎重に研究してみる価値があります。そうすれば、これこそがインド国民およびインドの精神にふさわしい唯一の武器であることがわかるでしょう。私はそう確信しています。世界最古の宗教を育んできたインドが、近代文明から学ぶべきことはほとんど何もありません。近代文明は漆黒の暴力を基盤にしており、多くの場合、人間の中にある神的なものを否定し、自らの破滅に向かってまっしぐらに突き進んでいます。
インディアン・オピニオン 1909年11月27日

Message to Indian National Congress
  At the present moment, I am unable to think of anything but the task immediately before me, namely, the struggle that is going on in the Transvaal. I hope our countrymen throughout India realise that it is national in its aim in that it has been undertaken to save India’s honour. I may be wrong, but I have not hesitated publicly to remark that it is the greatest struggle of modern times, because it is the purest as well in its goal as in its methods. Our countrymen in the Transvaal are fighting for the right of cultured Indians to enter the Transvaal in common with Europeans. In this the fighters have no personal interest to serve, nor is there any material gain to accrue to anybody after the above mentioned right (which has, for the first time in Colonial Legislation, been taken away) is restored. The sons of Hindustan, who are in the Transvaal, are showing that they are capable of fighting for an ideal pure and simple. The methods adopted in order to secure relief are also equally pure and equally simple. Violence in any shape or form is entirely eschewed. They believe that self-suffering is the only true and effective means to procure lasting reforms. They endeavour to meet and conquer hatred by love.  They oppose the brute or physical force by soul-force. They hold that loyalty to an earthly Sovereign or an earthly constitution is subordinate to loyalty to God and His constitution. In interpreting God’s constitution through their conscience, they admit that they may possibly be wrong. Hence, in resisting or disregarding those man-made laws which they consider to be inconsistent with the eternal laws of God, they accept with resignation the penalties provided by the former, and trust to the working of time and to the best in human nature to make good their position. If they are wrong, they alone suffer, and the estab-lished order of things continues. In the process, over 2,500 Indians, or nearly one-half of the resident Indian population, or one-fifth of the possible Indian population of the Transvaal, have suffered imprisonment, carrying with it terrible hardships. Some of them have gone to gaol again and again. Many families have been impoverished. Several merchants have accepted privation rather than surrender their manhood. Incidentally, the Hindu-Mahomedan problem has been solved in South Africa. We realise there that the one cannot do without the other. Mahomedans, Parsees and Hindus, or taking them provincially, Bengalees, Madrasees, Punjabis, Afghanistanees, and Bombayites, have fought shoulder to shoulder.
  I venture to suggest that a struggle such as this is worthy of occupying the best, if not, indeed, the exclusive attention of the Congress. If it be not impertinent, I would like to distinguish between this and the other items on the programme of the Congress. The opposition to the laws or the policy with which the other items deal does not involve any material suffering : the Congress activity consists in a mental attitude without corresponding action. In the Transvaal case, the law and the policy it enunciates being wrong, we disregard it, and there-fore consciously and deliberately suffer material and physical injury; action follows and corresponds to our mental attitude. If the view here submitted be correct, it will be allowed that, in asking for the best place in the Congress programme for the Transvaal question, I have not been un-reasonable. May I also suggest that, in pondering over and concentrating our attention upon passive resistance such as has been described above, we would perchance find out that for the many ills we suffer from in India passive resistance is an infallible panacea. It is worthy of careful study, and I am sure it will be found that it is the only weapon that is suited to the genius of our people and our land, which is the nursery of the most ancient religions and has very little to learn from modern civilization---civilization based on violence of the blackest type, largely a negation of the Divine in man, and which is rushing headlong to its own ruin.
Indian Opinion, 27-11-1909