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経済観

2011年9月 9日 (金)

経済の基本原則

 インド中からカディー(手紡ぎ・手織り綿布)の注文が届いていることを、皆さんも喜んでくださることでしょう。カディーの在庫はすべて売り切れてしまいましたが、注文はまだどんどん来ています。しかし、だからと言って、もうこれ以上カディーを注文してはいけないと、思わないでいただきたいのです。人々がカディーを信じることをやめたために、カディーの生産が止まってしまいましたが、そうでなければ、私たちはカディーを山ほど生産できるくらい素晴らしい状態でいられたはずです。また、私はカディーが売れることを望んではいますが、カディーは大変尊いものですから、本当には必要でないのに、たまっている在庫を減らすためだけに、カディーを注文するような人がいないことを望みます。手で紡いだ糸から作られたカディーは、私にとって神聖なものです。ですから、そのようなカディーが処分されるようなことがあってはなりません。もっと言えば、本当には必要ではないカディーを購入することは、この国をだめにします。今私たちが着ているような立派な、つまり外国や工場で作られた衣類の代わりに、カディーを着るようになって初めて、カディーは賢く用いられるようになり、そうなって初めて、インドの衣類の不足という問題を克服することに成功するのです。ですから、決まりとして守ってほしいのですが、いろいろな種類のドレスを着ている人は、必要な衣類の数を減らす必要があります。そうすることで、利用できる衣類が足りないという問題を緩和することができますし、本当に必要な量を確保するうえでも、できる場合は常にカディーを身に着けるべきです。その結果、人々に衣類を取っておくことができ、衣類に使うお金も有効に活用できるようになります。お金が少数の人の手に渡る代わりに、何千もの人々に分配されることになるからです。生産して消費するだけでは、十分ではありません。そうする際に、頭を働かせる必要があります。生産において、また、消費の仕方においても、できるだけ多くの人の利益となるようなやり方が整えられねばなりません。これこそが、経済の基本原則です。この原則が破られる場合にのみ、人々は欠乏状態を味わうことになるのです。ですから、カディーの需要があるというそれだけでは、私は嬉しくありません。
Navajivan, 23-5-1920

     The reader will be glad to know that we have been receiving orders for khadi from all over India. All the stocks of khadi have been sold out and orders are still pouring in. But people should not understand from this that one should order no more khadi. Because people had lost faith in it, the production of khadi has stopped but otherwise our position is so good that we can produce heaps and heaps of it. Besides, though I want khadi to be sold, I place so high a value on it that I do not want anyone to order it, if it is actually not needed, just in order to reduce accumulated stocks. Khadi made from hand-spun yarn is sacred to me, so that such khadi is not to be thrown away. Moreover, consumption of khadi with-out real need will harm the country. Khadi will have been wisely used when we start wearing it in place of the fine cloth or foreign or mill-made cloth now used by us. Only then shall we succeed in overcoming the shortage of cloth in India. The rule, therefore, is that people who use a great variety of dresses should reduce their needs of cloth-so that the pressure on available cloth may be reduced and even in meeting their genuine needs they should use khadi wherever they can. This will spare cloth for the people and the money spent over cloth will have been well used, for, instead of a few people earning it, it will be distributed among thousands. It is not enough that we produce and consume; we should use our discretion in doing so. Production--and the manner of consumption too--should be so organized as to benefit the maximum number of people. This is the simple principle of economics. People starve only where this is violated. Hence a demand for khadi by itself will not please me.
Navajivan, 23-5-1920

2008年11月28日 (金)

神聖なる目的

正当な手段でできるだけ稼いだらよい。そして、神聖なる目的のためにそれを使いなさい。自分自身の快適や贅沢のためではなく。(ハリジャン 1942年3月8日)

Earn what you can through rightful means and spend it on sacred purposes --- not on your comforts or luxuries.  Harijan, 8-3-1942

2008年11月 7日 (金)

質疑応答 その2 経済的平等とは何か

質問:経済的平等とは、実際どういうことを言うのでしょうか。あなたが思いつかれた制定法上の信託制度とは、いったい何でしょうか。
 ガンジーは、彼の考える経済的平等とは、全ての人が文字通り同じ額を所有することではないと答えた。各自が必要なだけを持つという、ただそれだけのことなのだ。例えば、彼は冬になるとショールが2枚必要であるが、彼と一緒に暮らす兄の孫のカヌ・ガンジーは、さらに彼の息子もそうだが、温かい衣類を全く必要としていない。ガンジーは山羊のミルクや、オレンジ、その他の果物を所望する。カヌは普通の食事でやっていける。ガンジーはカヌがうらやましいが、そのようなことを指摘しても意味はない。カヌは若いが、ガンジーは76歳の老人だ。ガンジーの1ヶ月の食費は、カヌの食費よりもかなり高くついている。しかし、このことによって、2人の間に経済的な不平等があるというわけではない。象は蟻よりも千倍多くの食料を必要としているが、それが不公平を示しているわけではない。だから、経済的平等が本来意味することは、マルクスの定義どおり、「各自に必要に応じて」となる。独身の男が、妻と四人の子を持つ男性と同じだけを要求するなら、経済的平等に反することになる。ガンジーは、さらに次のように続けた。

 「有産階級と一般の人々の間にある目のくらむような差異を正当化しようとはなさらないでください。王子と貧民の差異を、前者が後者よりも多くを必要とするからと言わないでください。そのようなことを言えば、私が主張することを怠惰にも詭弁を弄して曲解することになります。今日のような金持ちと貧乏人の間にある相違は、心の痛む光景です。貧しい村人たちは、外国の政府からとさらには、同国人である都市の住人からも搾取されています。彼らは食料を生産しつつも腹をすかせています。牛乳を生産しているにもかかわらず、彼らの子どもたちをそれを飲むことができません。恥ずかしいことです。全ての人にバランスの取れた食事と住むのに恥かしくない家が与えられ、子どもたちを教育する施設もあって、医療も十分に受けられるようになるべきです」
 これが、経済平等として彼が思い描くイメージだった。彼は最低限の必要を超えたそれ以上のものを全て排斥したいという考えではなかった。しかし、まずは貧しい人々に必需品を行き渡らせることが先でなくてはならない。最初にすべきことは、最初にやらねばならない。
 現在、富を所有している人は、階級闘争を選ぶか、自ら自発的に富の管理者になるかを選択せねばならない。彼らが自らの所有物を管理する任に当たることは構わないし、能力を用いて富をふやすことも構わない。しかし、自分のためではなく、国民のためにこれらのことをすることになる。だから、搾取はありえない。彼らが社会に捧げる奉仕や、それが社会にとってどのくらいの価値があるかに応じて、彼らが手にする委託料を国が調整する。彼らの子どもが、管理者としての地位を世襲するのは、その地位にふさわしいと認められた場合に限る。そして、彼は次のような結論を述べた。

 「仮に、インドが明日自由の国になるとすれば、法律で定められた財産管理者となる機会が全ての資本家に与えられます。しかし、そのような法律を上から押し付けることはよくありません。下から生じてくるものでなければなりません。財産信託制度の意味が人々にわかり、それを求める雰囲気が熟してくれば、人民自らがGram Panchayats(村落の自治組織)から始めて、そのような法律を制定するようになるでしょう。そのようなことは下から生じてきた場合には、容易に飲めますが、上から押し付けると、それはどうしようもない重圧でしかありません」
建設的労働者協議会での質疑応答 マドラスにて 1946年1月24日
ハリジャン 1946年3月31日

Gandhiji’s reply was that economic equality of his conception did not mean that everyone would literally have the same amount. It simply meant that everybody should have enough for his or her needs. For instance, he required two shawls in winter whereas his grand-nephew Kanu Gandhi who stayed with him and was like his own son did not require any warm clothing whatsoever. Gandhiji required goat's milk, oranges and other fruit. Kanu could do with ordinary food. He envied Kanu but there was no point in it. Kanu was a young man whereas he was an old man of 76. The monthly expense of his food was far more than that of Kanu but that did not mean that there was economic inequality between them. The elephant needs a thousand times more food than the ant, but that is not an indication of inequality. So the real meaning of economic equality was: "To each according to his need."  That was the definition of Marx. If a single man demanded as much as a man with wife and four children that would be a violation of economic equality. Gandhiji continued :
  Let no one try to justify the glaring difference between the classes and the masses, the prince and the pauper, by saying that the former need more. That will be idle sophistry and a travesty of my argument. The contrast between the rich and the poor today is a painful sight. The poor villagers are exploited by the foreign Government and also by their own countrymen---the city-dwellers. They produce the food and go hungry. They produce milk and their children have to go without it. It is disgraceful. Everyone must have a balanced diet, a decent house to live in, facilities for the education of one's children and adequate medical relief.
  That constituted his picture of economic equality. He did not want to taboo everything above and beyond the bare necessaries but they must come after the essential needs of the poor are satisfied. First things must come first.
  As for the present owners of wealth, they would have to make their choice between class-war and voluntarily converting themselves into trustees of their wealth. They would be allowed to retain the stewardship of their possessions and to use their talent to increase the wealth, not for their own sakes, but for the sake of the nation and therefore without exploitation. The State would regulate the rate of commission which they would get commensurate with the service rendered and its value to society. Their children would inherit the stewardship only if they proved their fitness for it. He concluded :

  Supposing India becomes a free country tomorrow, all the capi-talists will have an opportunity of becoming statutory trustees. But such a statute will not be imposed from above. It will have to come from below. When the people understand the implications of trusteeship and the atmosphere is ripe for it, the people themselves, beginning with gram panchayats, will begin to introduce such statutes. Such a thing coming from below is easy to swallow. Coming from above, it is liable to prove a dead weight.
ANSWERS TO QUESTIONS AT CONSTRUCTIVE WORKERS’ CONFERENCE, MADRAS January 24, 1946
The Hindu, 26-1-1946; also Harijan, 31-3-1946

2008年11月 1日 (土)

工業化に代わるもの

次のような投稿がありました。
 「船舶、汽車、飛行機などをインドが製造するような、インドの工業化が必要だと考えていらっしゃいますか? 必要ないとすれば、インドが自由な独立した国家として責任を果たしていく、それに代わる手段を提示していただけないでしょうか。
 また、ここにあげたような産業を確立すべきだと思われるのであれば、その産業およびそこから生じる利益を管理していくのは、あなたのお考えでは、どのような主体であるべきでしょうか」

 どのような国のどの場合においても、工業化が必要であるとは思いません。インドについてはなおのこと必要でありません。独立したインドがこの喘いでいる世界に対して義務を果たす道は、大多数の国民がつつましい家屋(手工業)をきちんと整え世界と平和に付き合っていくことで、質素な中にも高潔な生き方を取り入れていくことでしかありません。高邁な思索は、物に囲まれた複雑な生活とは両立しません。そのような生活は時間に追われるからです。お金を第一にすれば能率が求められるのは避けられませんが、高潔に生きる術を身に付けて初めて我々は、人生のあらゆる魅力を享受することができるようになります。
 危ない生き方をすることに、興奮を覚えるかもしれません。危険に面と向かって生きることと危ない生き方をすることとを、きちんと区別する必要があります。野生の獣や野蛮な人が潜む森の中で一人、銃も持たずに神だけを助けとして勇気を持って生活する人は、危険に面と向かって生きています。いつも空中で生活して、世界をあっと言わせてやろうとして下界に飛び降りるような人は、危ない生き方をしている人です。前者は目的がありますが、後者は目的もなく生きています。
 重装備をした世界に面と向かい、仰々しさに囲まれているのですから、どれだけ広大な面積と人口を抱えていてもたった一つの国が、そのような質素な生き方取り入れていけるのだろうかと考えるのは、懐疑論者が考えがちな疑問です。この疑問に対する答えはきっぱりと単純なものです。質素な生活が価値ある生き方であるなら、それを目指すことも価値ある試みなのです。そのような努力をするのがたった一人であろうと、一グループであったとしてもです。
 同時に私は、重要な工業のいくつかは必要であると考えます。理論だけのまたは、武装した社会主義というものを私は支持しません。私は、大多数の改心を待つことなく自分の信念に基づいた行動をすべきだと考えます。ですから、重要な工業というものを列挙する必要はありません。多くの人が一緒に働いて成り立つような国有を目指したいです。人々の労働によって生産された物は、国家を通して熟練工かどうかの区別なく労働者に、分け与えられます。ただし、私が思い描けるのは、非暴力を基盤にした国家だけですから、武力によって金持ちの所有物を奪うことはしません。国有へと変換していく過程で、彼らが協力してくれるようにお願いしたいと思うのです。大金持ちであろうと貧乏人であろうと、社会のはみ出しものは存在しません。金持ちも貧乏人も、同じ病気がもたらした傷みです。「その全てをひっくるめて」全ての人が人間です。
 インドでも他の地域でも目にしてきたし、これからも目にするであろう非人道的行為を直視してなおこの信念を、私は高らかに宣言します。危険に面と向かって生きようではありませんか。
ハリジャン 1946年9月1日

ALTERNATIVE TO INDUSTRIALISM
A correspondent writes :
Do you then believe that industrialization of India--to the extent of India producing her own ships, locomotives, aeroplanes, etc.,--is necessary? If not, will you kindly suggest the alternative means by which India shall discharge her responsibilities as a free and independent nation?
  If you believe in the establishment of such industries, who should, in your opinion, exercise control over the management and the profits that will accrue?

  I do not believe that industrialization is necessary in any case for any country. It is much less so for India. Indeed, I believe that Independent India can only discharge her duty towards a groaning world by adopting a simple but ennobled life by developing her thousands of cottage [industries] and living at peace with the world. High thinking is inconsistent with complicated material life based on high speed imposed on us by Mammon worship. All the graces of life are possible only when we learn the art of living nobly.
  There may be sensation in living dangerously. We must draw the distinction between living in the face of danger and living dangerously. A man who dares to live alone in a forest infested by wild beasts and wilder men without a gun and with God as his only Help, lives in the face of danger. A man who lives perpetually in mid-air and dives to the earth below to the admiration of a gaping world lives dangerously. One is a purposeful, the other a purposeless, life.
  Whether such plain living is possible for an isolated nation, however large geographically and numerically in the face of a world armed to the teeth and in the midst of pomp and circumstance, is a question open to the doubt of a sceptic. The answer is straight and simple. If plain life is worth living, then the attempt is worth making even though only an individual or a group makes the effort.
  At the same time I believe that some key industries are necessary. I do not believe in armchair or armed socialism. I believe in action according to my belief, without waiting for wholesale conversion. Hence, without having to enumerate key industries, I would have State ownership where a large number of people have to work together. The ownership of the products of their labour, whether skilled or unskilled, will vest in them through the State. But as I can conceive such a State only based on non-violence, I would not dispossess monied men by force but would invite their co-operation in the process of conversion to State ownership. There are no pariahs of society, whether they are millionaires or paupers. The two are sores of the same disease. And all are men “for a’ that”.
  And I avow this belief in the face of the inhumanities we have witnessed and may still have to witness in India as elsewhere. Let us live in the face of danger.
ON THE TRAIN TO DELHI, August 25, 1946
Harijan, 1-9-1946

2008年10月30日 (木)

質素な生活と高邁な思索

「理想的な社会とは、最小の労働で、必要なものをどんどん増し加えていくような生活をすべての個人が送ることができる、そういう社会である」

 このように、アフマダーバードの友人が書いてよこしました。この命題は、心地よく、多くの人が受け容れそうなまことしやかな主張に裏付けられています。・・・この世のすべての人が、最小限の労働で可能な限り最高の生活水準を維持できるはずだとするのは、ラクダが針の穴を通ると期待するくらい空想的なことです。この人が言う高い生活水準とは、贅沢な生活のことのようです。これを社会全体で達成するのは、どんな社会でも不可能です。贅沢に限度がなければ、一体我々はどこで止まればよいのでしょうか。世界のあらゆる聖典が、全く正反対のことを教えています。質素な生活と高邁な思索(ワーズワースの言葉)というのが、我々の前に提示されている理想です。大半の人が、これが真理であることを認識しています。しかし、人間が弱いためにその理想に到達できないでいます。しかし、そのような存在を心に描くことは全く問題なくできます。何千万人ものインド人に、ある金額の収入が保証されるべきであるのは、確かに正論です。そして、この理想を達成するには、大型機械は不必要であるばかりでなく、実に有害でさえあるのです。
 人は、日常の欲求をますます増やしていこうと思ったとたん、質素な生活と高邁な思索という理想を求めることをやめてしまいます。このような例は歴史を振り返ればたくさんあります。人の幸福は、実際には満足することにあります。満足していない人は、たとえどれほど多くのものを所有していても、自分自身の欲望の虜になっております。欲望の虜に匹敵するほどの奴隷状態は他にありません。自分自身が最良の友となることもありますが、同時に最大の敵になることもあると賢者は皆公言しています。自由でいるか、奴隷に成り下がるかを決めるのは自分自身です。そして個人についてあてはまることは、社会についてもあてはまります。
セワグラム 1940年10月9日
ハリジャン 1942年2月1日

PLAIN LIVING AND HIGH THINKING

An ideal society is that in which every individual will be able to live a life of progressively increasing wants with a minimum output of labour.

  Thus writes a friend from Ahmedabad. The proposition is pleasing and is backed by plausible argument which many may accept. ・・・That everyone in this world should be able to maintain as high a standard of life as possible with the least possible output of labour is just as fantastic as to expect a camel to pass through the eye of a needle. The writer’s high living would appear to mean luxurious living which is an impossible proposition for any society as a whole. And when there is no limit to luxury where shall we stop? All the scriptures of the world have taught the exact opposite.  Plain living and high thinking is the ideal that has been placed before us. The vast majority recognize its truth but are unable to get there because of human frailty. It is, however, perfectly possible to envisage such an existence. That the crores in India should be guaranteed a certain income is only right, and to achieve this ideal large-scale machinery is not only not necessary but wholly destructive.
  Man falls from the pursuit of the ideal of plain living and high thinking the moment he wants to multiply his daily wants. History gives ample proof of this. Man’s happiness really lies in contentment.  He who is discontented, however much he possesses, becomes a slave to his desires. And there is really no slavery equal to that of his desires. All the sages have declared from the house-tops that man can be his own worst enemy as well as his best friend. To be free or to be a slave lies in his own hands. And what is true for the individual is true for society.
SEVAGRAM, October 9, 1940
Harijan, 1-2-1942

2008年10月15日 (水)

道徳性不在の信用取引

 チャンパーランには、いわゆる農業銀行というものがあります。協同運動の成功例として期待しているのであれば、期待はずれに終わる努力をしているだけだと私は思っています。他方、同じ方向を目指した、ホッジ氏による静かな取り組みも行われています。ホッジ氏に接した人は、その努力を心に刻むことになります。・・・両者の取り組みを見守ることができた私は、当事者がどういう人かということが、一方を成功に導き、もう一方に失敗をもたらす重要な要素だと、ためらうことなく申し上げます。
 私は、熱中しやすいタイプです。しかし、25年間いろいろな事を試み、経験してきましたので、熱中するにしても用心深く、区別をして選択できるようになりました。大義のために働く人は、自分で意識することはないにしても、良い点をさらに増し加え、足りない点は、まさにそのことのゆえにそれが利点となっていくような、そのような働きを必然的にしてしまうのです。・・・・ですから、私は、協同運動に熱中している人々に、かなわない望みを抱くことがないようにと忠告しておきたいのです。
 ダニエル・ハミルトン卿にとっては、宗教になってしまいました。昨年の1月13日に、スコットランド教会付属大学の学生達に対して行った演説の中で、教訓として彼は200年前のスコットランドの貧困状態を例としてあげました。そして、偉大なるスコットランドが、いかにして貧困状態を脱して豊かになったかを説明しました。2つの勢力によってスコットランドは立ち直ったが、その2つとは、スコットランド教会とスコットランド銀行だったと彼は述べたのです。教会が人間を養成し、銀行は、世に出て行くために必要なお金を人に与えるべくお金を作り出したというのです。.... 教会は国民が神を畏れるように指導します。これが、知恵の始まりであるわけです。そして教区の学校で子どもたちは、人生の主要な目的は、神に栄光を帰すことであり、神との交流を永遠に楽しむことであると教わります。神と自分を信じるような教育が行われています。そしてそのようにして養成された信頼に足る人格に基づいて、スコットランド銀行の制度が確立されたというわけです。ダニエル卿は、そのように養われた人格に基づいてのみ、この素晴らしいスコットランド銀行の制度は立ち上がっていくことが可能になると語っていくのです。ここまでは、ダニエル卿の考えに異論は全くありません。「人格なくして、協力はありえない」というのが、至言だからです。
 しかし、さらにもっと先へと続いていくのです。油がのってきて協同運動について長々と演説をしていきます。「皆さんが夢見るインドの将来像が何であったとしても、それは、インドをひとつにまとめて、世界の中でインドが正しい位置を占めるようにすることであり、英国政府がここにいて、その政府の手にある溶接のためのハンマーは、協同運動であることは忘れてはいけません」と続くのです。彼に言わせれば、目下インドが苦しんでいるあらゆる病気に対する万能薬が、協同運動なのだそうです。・・・熱血漢の大風呂敷と私は思っています。彼の大げさな結論の注目してください。
 「信頼と信義でしかない信用取引が、世界の金権力となりつつあります。証書という弾丸に山をも動かす信仰が刻印されているのです。インドは勝利と平安を見出すでしょう」
 ここに、思考の混乱が見て取れます。世界の金権力となりつつある信用取引には、道徳的な基盤はほとんどありません。そしてそれは、純粋に道徳的な特性である信頼や信義と同義語ではないのです。私が20年間経験したことからいいましても、南アフリカの銀行と取引をしていた何百人もの人から、よく次のような意見を耳にしたものです。その言葉は今でも私の心に深く刻まれています。「悪人ほど、銀行からたくさん貸してもらえる」というのです。銀行は借り主の道徳性になど頓着しません。貸付高や約束手形に見合う金額を期日までに支払ってくれさえすれば良いのです。狡猾な蛇がとぐろを巻いているように、この信用システムが我々の美しい地球を取り囲んでいます。もし我々が気に留めずにいるならば、きっと我々の息の根を止めてしまうことでしょう。このシステムによって破綻した家庭を数多く見てきました。そしてその信用に協同の名がついていても、いなくても違いはありません。この死のとぐろによって、ヨーロッパにはひどい状態がもたらされ、私たちは成す術もなくそれを見つめています。今日ほどそれがあてはまることはないように思われますが、法治下にあっても、戦争中であっても財布を長持ちさせたものが、最後には勝利を収めるのです。私が、信用システムについて現在一般的に考えられていることに焦点を当てましたのも、次の点を強調したかったからです。つまり、協同運動がインドのためになるかは、その運動がどの程度まで道徳的運動であるかにかかっています。そして、宗教的情熱に燃えている人が厳格に指導すべきです。ですから、協力の手を差し伸べるのは、道徳的に正しい行いをしたいと思いながら、非常に貧しいためあるいは高利貸しの餌食になってしまったためにそれができないでいる人々に対してだけにとどめるべきです。適正な利率で金を貸してくれる施設に不道徳な人間を正しい人間に変える力はありません。しかし、国家の英知をを代表する人たちや、慈善家たちは、良くなりたいと努力をしている人々を、どんどん支援したらよいと主張するのです。
 物が豊かになれば、人の性質も良くなると信じてしまうことが、あまりにも多いのです。インドにとって良いことがとてもたくさんあるはずの運動が、低金利の融資をするだけの団体に成り下がってしまわないようにする必要があります。ですから、私はインド協同委員会の報告書にある忠告を読んで嬉しくなりました。それには、政府が人々の改善を期待できるのは、本物の協同運動だけ、つまり問題の道徳的側面を認識する協同運動だけであって、いかに立派に見えても協同運動の原則を無視して建てられた組織ではないのだという主張が堂々と掲げられていました。
 この基準に照らせば、運動の成果を創設された協同組合の数で測るようなことはなくなります。協力者の道徳性で測るようになるでしょう。そうすれば責任者も団体の数を増やすよりも前に、今ある団体を道徳的にもっとしっかりさせることに重点をおくようになります。そして政府の後押しも条件つきとなるでしょう。つまり、登録団体の数ではなく、現在ある施設で道徳性がどの程度向上したかが基準となります。そこで、メンバーに貸し与えられたすべてのパイス(インド・パキスタンの旧通貨単位: =1/64ルピー)の行き先を辿ることになります。協同組合の適切な活動に責任を有する人は、前渡ししたお金が、お酒の勘定に化けたり、賭博場の管理人の懐に入ったりしていないか注意します。賭博をなくし、農家からお酒を追放することができるのであれば、金貸しの強欲さに目をつぶっても良いのですが・・・
 高利貸しについて一言述べるのも的外れではないでしょう。協同運動というのは、新しい試みではありません。農民たちは、作物を食い荒らすサルや鳥を、協同で太鼓をたたいて追い払っています。脱穀場を共同利用しています。牛を守るために最良の土地を牛の放牧場として奉げるような、協同行為を彼らが行っているのを見たこともあります。さらに、とりわけ貪欲な高利貸しに対して共同戦線も張ってきました。高利貸しが農民たちをしっかり握っているから、協同運動も成功しないのではないかと疑問の声が上がっていました。そのような恐れを私は共有しません。もし高利貸しが悪の力を代表するものであるなら、最強の高利貸しといえども、本質的に道徳的な運動として始まった協同運動の前には、屈服するに違いないからです。高利貸しについてはチャンパーランでの限られた体験しかありませんが、それでも私は、高利貸しが「荒廃的影響力」を及ぼしているという一般的な考えを訂正することになりました。常に情け容赦ないわけではなく、最後の一切れまでむしりとるわけでもないことを発見しました。時には、いろいろなやり方でお客にサービスをすることもあるのです。ひどい困窮状態にあるときには、救いの手を差し伸べることさえあります。私が実際に見てきたことは限られていますから、そこから、どんな結論も導くことはできませんが、高利貸しから良い点を引き出して、悪いところを捨てていくように彼に迫っていく、真剣な取り組みを行えないだろうかと、謹んで問うてみたいのです。協同運動の団体に加わるように説得できないでしょうか。これまでの経緯から改心の見込みがないと言うのでしょうか?
 この運動がインド固有のあらゆる産業を視野に入れていることに、私は気づいています。私が機織り職人の境遇を改善しようと行っているささやかなて取り組みを、政府が支援してくださっていることに、この場を借りて感謝申し上げたいと思います。試みてきたことから、この分野においてたくさんの仕事があることがわかってきました。インドの幸福を願う愛国者で、手織り職人が今にも消滅してしまおうとしているのを、平然と眺めていられる人はいないでしょう。マン博士が述べたように、これは農民に追加の収入をもたらしていた産業であり、飢饉に対する保険の役割を果たしていました。
 協同運動の責任者で、この重要かつ優美な産業を生き返らせた人は必ず、インドの賞賛をえることになるでしょう。私のささやかな取り組みでは、最初に、従来の手織り機に単純な改良の余地はないか調査をし、次に、教育を受けた若者が政府関係やその他の仕事につきたいという思いを捨てるようにさせ、彼が受けた教育は独立した仕事に向かないような人間をつくる教育だったと気づかせ、弁護士や医師と同じく名誉ある素晴らしい仕事として機織りにつくように仕向けていきます。そしてさらに、機織りをやめた職人たちが、復帰できるように助けるのです。・・・この最後の取り組みについては、我々の今日のテーマと直接関係していますので、少し詳しく説明させていただいても良いでしょう。私は、ほんの半年前にこの取り組みを始めました。この天職をあきらめていた5つの家族が、この仕事に復帰しました。そして仕事はうまくいっています。彼らが必要とする糸は、アシュラムの責任で戸口まで届けます。織られた布も、アシュラムのほうで取りにうかがい、市価で現金で買い取ります。最初の糸代として前払いした額の金利分だけを、アシュラムは負担することになります。これまでのところ、損失は出していませんし、貸付を限度内に抑えることで、負担も最小ですんでいます。今後の業務はすべて断固として現金払いを貫きます。受け取った布はすぐに売ることができています。ですから、この業務における金利分の損失は、無視できるほどの額でしかありません。この最初から最後まで、道徳的であるという点に注目していただきたいのです。アシュラムは、友人が手を貸してくれるような援助に、存在の全てを依存しています。ですから、我々には、利息を請求する権限はないのです。機織りに対して利息が貸されることはありえません。ばらばらに崩壊してしまっていた家族が、まとまりを取り戻します。貸付の使い道は、あらかじめ決められています。
 我々仲介者は、ボランティアですので、これらの家族の生活に関わっていく特権を得ています。そして、彼ら、および我々の状態がより良くなることを願っているのです。自分たちが向上しなくては、彼らの状態を良くすることもできません。今ここで最後に述べましたような関係は、まだできあがっていません。しかし、早い時期にこれらの家族の教育にも着手したいと願っています。そして彼らのあらゆることに関わっていけるようになって、初めて我々は満足するのです。これは決して、見果てぬ夢ではありません。神がそう望めば、いつの日か現実となります。この小さな実験を長々と述べてきましたのも、私が考える共同事業とは何かを皆さんに示して、それを真似てもらいたいと思ったからです。我々の理想が何かを、確認しましょう。実現することはなかなかできないかもしれません。しかし、それに向けて努力するのを、決してやめてはいけません。そうすれば、ラスキンには正当な理由があって恐れていた「悪党の協同」を、我々は怖がる必要がないのです。
インディアン・レビュー 1917年10月

  There are so-called agricultural banks in Champaran. They were to me disappointing efforts, if they were meant to be demonstrations of the success of co-operation. On the other hand, there is quiet work in the same direction being done by Mr. Hodge, a missionary whose efforts are leaving their impression on those who come in contact with him. .... I who was able to watch the two efforts had no hesitation in inferring that the personal equation counted for success in the one and failure in the other instance.
  I am an enthusiast myself, but twenty-five years of experimenting and experience have made me a cautious and discriminating enthusiast. Workers in a cause necessarily, though quite unconsciously, exaggerate its merits and often succeed in turning its very defects into advantages. .... I would venture, therefore, to warn enthusiasts in co-operation against entertaining false hopes.
  With Sir Daniel Hamilton, it has become a religion. On the 13th January last, he addressed the students of the Scottish Churches College, and in order to point a moral he instanced Scotland's poverty of two hundred years ago and showed how that great country was raised from a condition of poverty to plenty. He said: There were two powers which raised her---the Scottish Church and the Scottish banks. The Church manufactured the men and the banks manufactured the money to give the men a start in life.... The Church disciplined the nation in the fear of God which is the beginning of wisdom and in the parish schools of the Church, the children learned that the chief end of man's life was to glorify God and to enjoy Him for ever. Men were trained to believe in God and in themselves, and on the trustworthy character so created, the Scottish banking system was built. Sir Daniel then shows that it was possible to build up the marvellous Scottish banking system only on the character so built. So far there can only be perfect agreement with Sir Daniel, for "Without character there is no co-operation" is a sound maxim.
  But he would have us go much further. He thus waxes eloquent on co-operation: Whatever may be your day-dreams of India's future, never forget this that it is to weld India into one, and so enable her to take her rightful place in the world, that the British Government is here; and the welding hammer in the hand of the Government is the co-operative movement.
  In his opinion, it is the panacea of all the evils that afflict India at the present moment. .... I venture to think, it is an enthusiast's exaggeration. Mark his peroration: Credit which is only Trust and Faith, is becoming more and more the money power of the world, and in the parchment bullet into which is impressed the faith which removes mountains, India will find victory and peace.
  Here there is evident confusion of thought. The credit which is becoming the money power of the world has little moral basis and is not a synonym for Trust or Faith, which are purely moral qualities.  After twenty years' experience of hundreds of men, who had dealings with banks in South Africa, the opinion I had so often heard expressed has become firmly rooted in me, that the greater the rascal, the greater the credit he enjoys with his banks. The banks do not pry into his moral character; they are satisfied that he meets his over-drafts and promissory notes punctually. The credit system has encircled this beautiful globe of ours like a serpent’s coil, and if we do not mind, it bids fair to crush us out of breath. I have witnessed the ruin of many a home through the system, and it has made no difference whether the credit was labelled co-operative or otherwise. The deadly coil has made possible the devastating spectacle in Europe, which we are helplessly looking on. It was perhaps never so true as it is to-day that as in law so in war the longest purse finally wins. I have ventured to give prominence to the current belief about credit system in order to emphasise the point that the co-operative movement will be a blessing to India only to the extent that it is a moral movement strictly directed by men fired with religious fervour. It follows, therefore, that co-operation should be confined to men wishing to be morally right, but failing to do so, because of grinding poverty or of the grip of the mahajan(Moneylender).  Facility for obtaining loans at fair rates will not make immoral or unmoral men moral. But the wisdom of the State or philanthropists demands that they should help, on the onward path, men struggling to be good.
  Too often do we believe that material prosperity means moral growth. It is necessary that a movement which is fraught with so much good to India should not degenerate into one for merely advancing cheap loans. I was therefore delighted to read the recommendation in the Report of the Committee on Co-operation in India, that they wish clearly to express their opinion that it is to true co-operation alone, that is, to a co-operation which recognises the moral aspect of the question that Government must look for the amelioration of the masses and not to a pseudo co-operative edifice, however imposing, which is built in ignorance of co-operative, principles.
  With this standard before us, we will not measure the success of the movement by the number of co-operative societies formed, but by the moral condition of the co-operators. The Registrars will in that event ensure the moral growth of existing societies befor multiplying them. And the Government will make their promotion conditional, not upon the number of societies they have registered, but
the moral success of the existing institutions. This will mean tracing the course of every pice lent to the members. Those responsible for the proper conduct of co-operative societies will see to it that the money advanced does not find its way into the toddy-sellers’ till or into the pockets of the keepers of gambling dens. I would excuse the rapacity of the mahajan if it has succeeded in keeping the gambling die or toddy from the ryot’s home.
  A word perhaps about the mahajan will not be out of place.  Co-operation is not a new device. The ryots co-operate to drum out monkeys or birds that destroy their crops. They co-operate to use a common thrashing floor. I have found them co-operate to protect their cattle to the extent of their devoting their best land for the grazing of their cattle. And they have been found co-operating against a particularly rapacious mahajan. Doubt has been-expressed as to the success of co-operation because of the tightness of the mahajan's hold on the ryots. I do not share the fears. The mightiest mahajan must, if he represents an evil force, bend before co-operation, conceived as an essentially moral movement. But my limited experience of the mahajan of Champaran has made me revise the accepted opinion about his ‘blighting influence’.  I have found him to be not always relentless, not always exacting of the last pie. He sometimes serves his clients in many ways or even comes to their rescue in the hour of their distress. My observation is so limited that I dare not draw any conclusions from it, but I respectfully enquire whether it is not possible to make a serious effort to draw out the good in the mahajan and help him or induce him to throw out the evil in him. May he not be induced to join the army of co-operation, or has experience proved that he is past praying for?
  I note that the movement takes note of all indigenous industries.  I beg publicly to express my gratitude to Government for helping me in my humble effort to improve the lot of the weaver. The experiment I am conducting shows that there is a vast field for work in this direction. No well-wisher of India, no patriot dare look upon the impending destruction of the handloom weaver with equanimity. As Dr. Mann has stated, this industry used to supply the peasant with an additional source of livelihood and an insurance against famine.
  Every Registrar who will nurse back to life this important and graceful industry will earn the gratitude of India. My humble effort consists of, firstly, in making researches as to the possibilities of simple reforms in the orthodox handlooms, secondly, in weaning the educated youth from the craving for Government or other service and the feeling that education renders him unfit for independent occupation and inducing him to take to weaving as a calling as honourable as that of a barrister or a doctor, and, thirdly, by helping those who have abandoned their occupation to revert to it. .... The third may be allowed a few sentences as it has a direct bearing upon the subject before us. I was able to enter upon it only six months ago. Five families that had left off the calling have reverted to it and they are doing a prosperous business. The Ashram supplies them at their door with the yarn they need; it volunteers to take delivery of the cloth woven, paying them cash at the market rate. The Ashram merely loses interest on the loan advanced for the yarn. It has as yet suffered no loss and is able to restrict its loss to a minimum by limiting the loan to a particular figure. All future transactions are strictly cash. We are able to command a ready sale for the cloth received. The loss of interest, therefore, on the transaction is negligible. I would like the audience to note its purely moral character from start to finish. The Ashram depends for its existence on such help as friends render it. We, therefore, can have no warrant for charging interest. The weavers could not be saddled with it. Whole families that were breaking to pieces are put together again. The use of the loan is predetermined.
  And we the middlemen being volunteers obtain the privilege of entering into the lives of these families 1 hope for their and our betterment. We cannot lift them without being lifted ourselves. This last relationship has not yet been developed, but we hope at an early date to take in hand the education too of these families and not rest satisfied till we have touched them at every point. This is not too ambitious a dream. God willing, it will be a reality some day. I have ventured to dilate upon the small experiment to illustrate what I mean by co-operation to present it to others for imitation. Let us be sure of our ideal. We shall ever fail to realise it, but we should never cease to strive for it. Then there need be no fear of “co-operation of scoundrels” that Ruskin so rightly dreaded.
From the original in Gandhiji's hand; S. N. 6412:
also The Indian Review, October 1917

2008年9月 5日 (金)

経済成長と道徳的成長

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私の経験と試みてきたことをご紹介する前に、今晩の演題についてお互いに理解しておくことが最善かと思われます。「経済成長は真の成長と衝突しているか」というのが演題ですが、私が理解しているところでは、経済成長とは限度のない物質的な伸展です。そして、本物の成長とは、道徳的成長を意味し、これは、我々のうちに潜む永遠の要素が成長していくことと同義です。ですから、演題は次のように言い変えることもできます。「道徳的成長は物質の増大に正比例しないのか」と。......300万人ものインド人が1日に1食で暮らしているというウィリアム・ウィルソン・ハンター卿(訳注:スコットランドの統計学者; インド帝国の統計調査をして集約した)が指摘した具体的な実例に、人々はとりつかれているようです。道徳的な幸福について考えたり、語ったりする前に、日々の必要を満たしてあげなければならないと、人々は言います。このことをもって、彼らはこう言うのです。「物質的な増大が、道徳心の増大を意味する」と。そして、そこから急に飛躍をするのです。「300万人に当てはまることは、普遍的に適用できる」と。厄介な事例によってとんでもない法律が作られることを、人々は忘れています。このような推論が、どれほど滑稽でばかげたこととなろうかは、言うまでもないでしょう。じりじりと締め上げられるような貧困が道徳的廃頽以外の結果をもたらすと言った人は、いまだかつて1人もいません。すべての人に生きる権利があります。ですから、自分自身を食べさせ、必要な衣類を得て、住まうための手段を獲得する権利があります。しかし、この非常に単純なことをするのに、経済学者や彼らの作る法律の助けを借りる必要はないのです。
 「明日のことを思い悩むな」(注:聖書「マタイ6:34」)は、世界のほぼすべての宗教経典に共通する命令です。よく秩序の保たれた社会では、生計を確保することはこの世で最も容易なことでなければいけませんし、実際にそうなのです。本当のところ、ある国がきちんと整っているかどうかは、その国に大金持ちが何人いるかで決まるのではなく、大衆が飢えていないことが試金石です。考察しなければならない唯一の命題は、「物質的な伸展イコール道徳的成長であると、普遍的に適用できる法則として提示できるか」ということになります。
 さてここで、いくつかの例を挙げたいと思います。ローマは、物質的に大変豊かになったときに、道徳的頽廃に悩みました。エジプトも同様でした。おそらく歴史に記録が残るほとんどの国が同じだったでしょう。王族で神聖なるクリシュナ神の末裔も贅沢三昧をするようになって、堕落しました。ロックフェラーやカーネギーが通常程度の道徳性も持っていないとは言いませんが、我々は彼らのことを寛大に評価してあげています。彼らに最高水準の道徳性を期待することすらしていないのです。彼らにとって、物質的な利益は、必ずしも道徳的進歩を意味しません。南アフリカで、私は何千人もの同国の人々と非常に親しい間柄になるという特権に浴しましたが、ほぼ例外なく富を多く持つ人ほど、道徳的に堕落しているのが見て取れました。ごく控え目に言っても、金持ちの同国人は、貧しい人々ほどには受動的抵抗の道徳的闘争を前進させることをしませんでした。金持ちは、非常に貧しい人々ほどには自尊心を傷つけられてはいなかったのです。あえて危険を顧みなければ、さらに核心に近づいて、富を所有することが本物の成長を妨げてきたことを示せるだろうにと思います。近代の教科書の多くよりも世界の経典が、経済法則については、はるかに安全で、健全な書物であるとさえ私は思っています。
 今晩、自らに問いかけている課題は、目新しいものではありません。2000年前にイエス・キリストに対しても、同じ問いがなされました。・・・・・イエスは更に言葉を続けられた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」・・・「はっきり言っておく。私のためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は誰でも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」(注:聖書「マルコ10:24~25、29~31」)
 .....我々の前に提示された問いに対して、たしかにその通りであると証言する最も強力な事例は、世界の偉大なる師たちの生き様でしょう。イエス、マホメット、仏陀、ナーナク(シーク教の開祖)、カビール(ヒンドゥー思想とイスラム思想の合一をはかった。シーク教の先駆者)、シャンカラ(9 世紀のインドの哲学者)、ラーマクリシュナ(インドの宗教家; すべての宗教は唯一の究極的真理の異なる面を示すと唱えた)らは、幾千もの人々に計り知れない影響を及ぼし、彼らの人格形成に寄与しました。このような人々が生きてくれたおかげで、世界はより豊かになっているのです。そして、これらの人々はすべて、熟慮のすえ自らの運命として清貧を受け入れています。
 物を追い求める近代の熱狂が我々の目標になればなるほど、成長の道を転がり落ちてしまうのだと、私が信じていないならば、ここまで事細かに述べなくてもよかったでしょう。しかし、自分が述べてきたような経済成長は、本物の成長と対立するものであると私は考えるのです。だからこそ、古代の理想では、富を増大させる活動に制限を加えてきたのです。この理想によって、物に対する野望がすべて消滅してしまうわけではありません。いつの時代でもそうであったように、今でも、我々の中には、富を求めることを人生の目的にしている人がいます。しかし、それは理想を失うことであると、我々はいつも認識してきました。我々の中で最も多くの富を持つ人が、自らの意思で貧しい状態を保っていたならば、もっと高い精神状態に達していただろうと感じることがよくあるそうです。すばらしいことではありませんか。つまり、「神と富の両方に仕えることはできない」(聖書マタイ6;24)というのは、最も価値がある経済的真理です。私たちは選ばなければなりません。西洋の国々は今日、物質主義という化け物に踏みつけられてうめいています。道徳的な成長は止まってしまいました。西洋は、ポンド、シリング、ペニーで自分たちの成長を測っています。アメリカの富が標準になりました。他の国はアメリカに羨望の眼差しを向けます。「アメリカのやり方は避けながら、我々もアメリカの富を手にいれよう」と多くのインド人が言うのを耳にしてきました。そのようなことを試みれば、はじめから失敗するに決っていると、私はあえて申し上げます。
 我々は、「賢さと慎みを持ちながら、怒り狂うこと」(マクベス第2幕3)は同時にできません。道徳的に世界一になることを我々インド人に教えてくれるような指導者を持ちたいものです。我々のこの国は、かつて神々の住まいであったと言われています。製造所や工場の煙突から出る煙や騒音、線路を忙しく行き交う機関車で醜く変わり果てた土地では、神が住まうことを想像するのは不可能です。機関車は多くの客車をつないでおり、客車は人でいっぱいですが、大半の人は、いったい自分たちが何を追い求めているのかもわからないでいます。心が上の空であることが多く、箱詰めのイワシのようにすし詰めの不快さを味わい、全然知らない人たちに囲まれている状況に身を置いても、その人の気質が向上するわけではありません。人々は機会があれば、回りにいる人を追い払って自分の場所を確保したいと思っていて、同様に追い払われたりしているのです。私がこのようなことを述べましたのも、これらが、物質的な成長を象徴することであると考えられているからです。しかし、これらは、私たちの幸福をほんの少しも増やしてはくれません。
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黄金よりも真理を、動力や富という見せ掛けの華やかさよりも恐れを克服した姿を、自己愛よりも博愛精神を示せれば、その時はじめて、我々のこの国は真に霊的な国となります。都会の家、宮殿、寺院から富に付随するものを拭い去り、それらの建物によって道徳性を示せるようになれば、どんな種類の敵の軍事力に対しても、重武装という重荷を負うことなく闘いに挑むことができます。神の国とその義をまず第一に求めようではありませんか。そうすれば、絶対に変わることのない約束として、すべてのものが加えて私たちに与えられるのです(参照:聖書「マタイ6:33」) 。これが本物の経済学です。私もあなた方も、これを大切にして、日常の生活でこれを固く守っていこうではありませんか。
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ミュアー大学経済協会でのスピーチ
          アラハバード  1916年12月22日
The Leader, 1916年12月25日

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Before I take you to the field of my experiences and experiments, it is perhaps best to have a mutual understanding about the title of this evening's address: Does economic progress clash with real progress? By economic progress, I take it, we mean material advancement without limit and by real progress we mean moral progress, which again is the same thing as progress of the permanent element in us. The subject may therefore be stated thus: “Does not moral progress increase in the same proportion as material progress?”......They seem to be obsessed with the concrete case of thirty millions of India stated by the late Sir William Wilson Hunter to be living on one meal a day. They say that before we can think or talk of their moral welfare, we must satisfy their daily wants. With these, they say, material progress spells moral progress. And then is taken a sudden jump: what is true of thirty millions is true of the universe. They forget that hard cases make bad law. I need hardly say to you how ludicrously absurd this deduction would be.  No one has ever suggested that grinding pauperism can lead to anything else than moral degradation. Every human being has a right to live and therefore to find the wherewithal to feed himself and where necessary to clothe and house himself. But, for this very simple performance, we need no assistance from economists or their laws.
  “Take no thought for the morrow”(Matthew, 6: 34) is an injunction which finds an echo in almost all the religious scriptures of the world. In well-ordered society, the securing of one's livelihood should be and is found to be the easiest thing in the world. Indeed, the test of orderliness in a country is not the number of millionaires it owns, but the absence of starvation among its masses. The only statement that has to be examined is whether it can be laid down as a law of universal application that material advancement means moral progress.
  Now let us take a few illustrations. Rome suffered a moral fall when it attained high material affluence. So did Egypt and so perhaps most countries of which we have any historic record. The descendants, kinsmen of the royal and divine Krishna, too, fell when they were rolling in riches. We do not deny to the Rockefellers and the Carnegies possession of an ordinary measure of morality but we gladly judge them indulgently. I mean that we do not even expect them to satisfy the highest standard of morality. With them material gain has not necessarily meant moral gain. In South Africa, where I had the privilege of associating with thousands of our countrymen on most intimate terms, I observed almost invariably that the greater the possession of riches, the greater was their moral turpitude. Our rich men, to say the least, did not advance the moral struggle of passive resistance as did the poor. The rich men's sense of self-respect was not so much injured as that of the poorest. If I were not afraid of treading on dangerous ground, I would even come nearer home and show you that possession of riches has been a hindrance to real growth. I venture to think that the scriptures of the world are far safer and sounder treatises on laws of economics than many of the modern text-books.
  The question we are asking ourselves this evening is not a new one. It was addressed to Jesus two thousand years ago. .....Jesus answereth again and saith unto them; "how hard it is for them that trust in riches to enter into the kindgom of God. It is easier for a camel to go through the eye of a needle than for a rich man to enter into the kingdom of God!"..."Verily I say unto you there is no man that has left house or brethren or sisters, or father or mother, or wife or children or lands for my sake and the Gospels, but he shall receive one hundred fold, now in this time houses and brethren and sisters and mothers and children and lands with persecutions and in the world to come eternal life.  But many that are first shall be last and the last first."(Mark, 10:24-25, 29-31)
  .....Perhaps the strongest of all the testimonies in favour of the affirmative answer to the question before us are the lives of the greatest teachers of the world. Jesus, Mahomed, Buddha, Nanak, Kabir, Shankara, Ramakrishna were men who exercised an immense influence over and moulded the character of thousands of men. The world is the richer for their having lived in it. And they were all men who deliberately embraced poverty as their lot.
  I should not have laboured my point as I have done, if I did not believe that, in so far as we have made the modern materialistic craze our goal, in so far are we going downhill in the path of progress.  I hold that economic progress in the sense I have put it is antagonistic to real progress. Hence the ancient ideal has been the limitation of activities promoting wealth. This does not put an end to all material ambition. We should still have, as we have always had, in our midst people who make the pursuit of wealth their aim in life. But we have always recognised that it is a fall from the ideal. It is a beautiful thing to know that the wealthiest among us have often felt that to have remained voluntarily poor would have been a higher state for them.  That you cannot serve God and Mammon is an economic truth of the highest value. We have to make our choice. Western nations today are groaning under the heel of the monster-god of materialism. Their moral growth has become stunted. They measure their progress in £.s.d.  American wealth has become the standard. She [sic] is the envy of the other nations. I have heard many of our countrymen say that we will gain American wealth but avoid its methods. I venture to suggest that such an attempt if it were made is foredoomed to failure.
  We cannot be "wise, temperate and furious"(Macbeth, II, iii)in a moment.  I would have our leaders to teach us to be morally supreme in the world. This land of ours was once, we are told, the abode of the gods. It is not possible to conceive gods inhabiting a land which is made hideous by the smoke and the din of mill chimneys and factories and whose roadways are traversed by rushing engines dragging numerous cars crowded with men mostly who know not what they are after, who are often absent-minded, and whose tempers do not improve by being uncomfortably packed like sardines in boxes and finding themselves in the midst of utter strangers who would oust them if they could and whom they would in their turn oust similarly. I refer to these things because they are held to be symbolical of material progress. But they add not an atom to our happiness.
......
Ours will only then be a truly spiritual nation when we shall show more truth than gold, greater fearlessness than pomp of power and wealth, greater charity than love of self. If we will but clean town houses, our palaces and temples of the attributes of wealth and show in them the attributes of morality, we can offer battle to any combinations of hostile forces without having to carry the burden of a heavy militia. Let us seek first the kingdom of God and His righteousness and the irrevocable promise is that everything will be added with us. These are real economics. May you and I treasure them and enforce them in our daily life.
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SPEECH AT MUIR COLLEGE ECONOMIC SOCIETY,
          ALLAHABAD  December 22, 1916
The Leader, 25-12-1916