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2011年9月

2011年9月30日 (金)

肉体労働こそ人の本分②

ガンジーによるギータ講話
ギータ第3章 実践の行  10節
  アルジュン! 宇宙の草創期に祭祀によって生類を創造したあと、創造神ブランマさまは生類にこう告げられたのだ。--
 祭祀を行い、末長く繁栄せよ。祭祀は、望みのものをすべて与えるのだ。

  『シュリマド・バガワッドギータ』(池田運訳・講談社出版サービスセンター)

1926年4月14日
 我々は昨日[9月28日付のブログ記事参照]、ヤジュナ(祭祀)という用語の意味について考えました。手足を使うこと、労働すること、他者の利益のために働くこと。これらの考えが、この一つの節から浮かび上がってきます。「ヤジュナ(祭祀)によって人は創造された」とは、どういう意図で語られたのでしょうか。輪廻転生、年を取ること、死を避けることができない我々ですので、肉体労働もまた、避けることができない我々の人生における宿命なのです。しかし、実際には、人は自己中心になってしまい、あらゆることについて自分の欲望に従い、快楽にふけるために働いているのが現実です。しかし、このような方向で、この世界が続いていくことはあり得ません。世界が存続できないのなら、このようにふるまう個人も生きていくことはできません。人は、無力な存在としてこの世に生を受けました。子どもには父母のように誰か世話をしてくれる人が必要です。人は依存した状態で生まれ、人に頼りつつ死んでゆきます。・・・このように、あらゆることにおいて、他者に依存しているのが人間です。人間が自分の思い通りにできるのは、ほんの少しのことに過ぎません。ですから、あらゆることをヤジュナの精神で行うのが、人にとって最も良いことです。・・・この時代においては、適切とされるヤジュナは糸紡ぎです。・・・
 私がヤジュナにこのような意味を付随させるようになったのは、もうずっと前からです。私が初めてギータ(ヒンズー教の聖典)を読んで以来、私はそのような意味でこの言葉を理解してきました。ロシア人作家ボンダレフが「パンのための労働」について述べていることもまた、私の考えを追認してくれています。しかし、そもそもの最初から、私はこのように考えていましたし、年月を経るごとにその思いは強くなりました。ロシアの作家は、真理の一面を指摘しています。我々はもう一方の側面も理解しています。パンのための労働について、今では我々はもっとよく理解しています。なぜなら、ヤジュナというのは、我々にとっては生計を維持するための労働ではないからです。このヤジュナという言葉から連想される事柄のおかげで、我々はヤジュナというのを、この意味だけに限定することはしていません。この文脈での労働は、肉体労働のことです。12時間労働してきた人だけが、食べるべきなのです。ブラーフマチャールヤ(禁欲を守るべき学生期)を誠実に守り、純潔を保ち、邪悪な欲望から解放されていたいならば、そういう人は誰でも、肉体労働に従事しなければなりません。肉体労働者は、我々ほど、そのような欲望に支配されたり、揺れ動かされることがありません。彼らは頭脳明晰ではないかもしれません。しかし、邪悪な欲望の餌食になるくらいなら、頭脳が冴えない方がましです。この世界は、インテリ階級の人がいなくても存続できますが、すべての人が肉体労働を拒否したら、どうにも立ち行きません。我々は、知性を用いて、肉体労働の法則を確認してきました。肉体労働の普遍的形態の一つとして、農業があります。ですので、農業はヤジュナとみなされなければなりません。
 

「祭祀によって力を増した天人は、おまえたちが求めなくてもかならず豊かな福徳を施してくれるだろう。天人の授ける福徳をただ浪費するだけで、なにも返さないものは紛れもない泥棒だ。」ギータ3章12節
 『シュリマド・バガワッドギータ』(池田運訳・講談社出版サービスセンター)

 ヤジュナ(祭祀)、つまり、他者のためになされるあなたの働きや肉体労働によって、喜びに満たされた天人(神々)は、あなたの望みを満たす術を授けてくださいます。つまり、社会という形をまとった神々が、それらをあなたに授けてくださるのです。神々が授けてくださるものを受け取りながら、他者に何も返さない者は皆、泥棒です。社会のために肉体労働をしない者は、泥棒です。

 「口に入れるものは神饌のおさがりだけという善人はあらゆる罪障から解放されるが、肉体を養うためにのみ食う悪人は、自らの罪を食らうことになる」ギータ3章13節
 『シュリマド・バガワッドギータ』(池田運訳・講談社出版サービスセンター)

 ヤジュナの後に残されたものだけを食べる聖人は、あらゆる罪から解放されます。食べるために得た物をまずクリシュナ神である社会に捧げる人たちは、罪から解放された生涯を歩みます。しかし、自分たちのためだけに食物を料理する人たちは、自己中心的な目的のためだけに働く人は、食べるものから罪だけを摂取することになります。だから、人は、定期的に、日々ヤジュナを行う、つまり犠牲を捧げるべきなのです。そして、その犠牲の根底にあるのが、肉体労働です。最大のヤジュナは、まさにこの神の第一の命令を守ることにあります。人は皆、この命令を携えてこの世に生まれたのです。

 「なぜなら、生類は穀物で身を育て、穀物の生産は雨によって促され、雨は祭祀に応えて降り、祭司は伝統行事をとおして成立するからだ。」ギータ3章14節
 『シュリマド・バガワッドギータ』(池田運訳・講談社出版サービスセンター)

 もし、人が何もしなければ、雨も降りません。つまり、人がヤジュナを行わないならば、雨が降らないというのです。必要な働きは、なされなければならないのです。・・・

April 14, 1926
     We discussed yesterday the meaning of the term yajna. Using one's limbs, labouring, working for others' good, these ideas follow from this one verse. What is meant by saying that mankind was created along with yajna? As we cannot escape the cycle of birth, old age and death, so also bodily labour is our lot in life from which there is no escape. But what actually happens is that man becomes selfcentred and follows his own wishes in every matter, or works in order that he may be able to indulge in pleasures. But the world cannot go on thus, and if the world cannot go on, the individual who behaves in this manner also cannot live. Man is born a helpless creature. The child needs someone--a mother-god or father-god--to look after it.  Man is born dependent, and dies in dependence..... Man is, thus, dependent on others in all things. He is his own master in only a few matters. It is, therefore, best for him to do everything in the spirit of yajna....The right yajna for this age is the yajna of spinning....
     It is not recently that I have come to attach this meaning to yajna; I have understood it in that sense ever since I first read the Gita. What I read about the Russian writer Bondoref's [views on] “bread labour” only confirmed my idea, but the idea was with me from the beginning and has grown stronger with years. The Russian writer has stated one side of the truth. We understand the other side too. We now understand the idea of bread labour better, for by yajna we do not mean labour as a means of livelihood. Thanks to the associations which the term calls up, we do not restrict yajna to mean this and no more. Labour in this context means bodily labour. He alone should eat who has laboured for twelve hours. Anyone who sincerely wants to observe brahmacharya, to preserve purity and to be free from evil desires, must engage himself in bodily labour. People who do physical work are not subject to the sway of such desires as much as we are. Maybe they are dull in mind; but it is better to be dull in mind than to be a prey to evil desires. The world would go on even if there were no intelligent men and women in it, but it would be nowhere if all people refused to do physical work. We have exercised our intelligence in acknowledging the law of bodily labour. The one universal form of such labour is agriculture and it should, therefore, be looked upon as yajna.
    “Cherished with sacrifice, the gods will bestow on you the desired boons.” He who enjoys their gifts without rendering aught unto them is verily a thief.
     The gods, gratified by yajna, that is, by your work for the service of others and your bodily labour, will grant you the means to gratify your desires; that is, the gods in the form of society will grant them to you. Anyone who receives what they give but offers nothing to others is a thief. He is a thief who does not do bodily labour for society.
     The righteous men who eat the residue of the sacrifice are freed from all sin, but the wicked who cook for themselves eat sin.
     Those holy persons who eat only what is left behind after the yajna is over become free from all sins. They who first offer to society, to Shri Krishna, what they get to eat, live free from sin. But those who cook food only for themselves, who work only for selfish ends, take in nothing but sin when they eat. That is why one should regularly and daily perform yajna, make a sacrifice, of which body labour is the foundation. The greatest yajna consists in observing the very first commandment of God, the commandment with which every human being is sent into this world.
     From food springs all life, from rain is born food; from sacrifice comes rain and sacrifice is the result of action.
     If people did nothing, there would be no rains, which means that there would be no rains if people did not perform yajna. Work which is necessary must be done....

2011年9月28日 (水)

肉体労働こそ人の本分

ガンジーによるギータ講話
ギータ第3章 実践の行  10節
  アルジュン! 宇宙の草創期に祭祀によって生類を創造したあと、創造神ブランマさまは生類にこう告げられたのだ。--
 祭祀を行い、末長く繁栄せよ。祭祀は、望みのものをすべて与えるのだ。 

 『シュリマド・バガワッドギータ』(池田運訳・講談社出版サービスセンター)

1926年4月13日
 「神はヤジュナ(祭祀)によって生類を創造し・・・」どのようなタイプのヤジュナ(祭祀)のことを、ここで言っているのでしょうか?この用語には、何か特別の意味が含まれているのでしょうか? 私は含まれていると思います。ここで言われていることは、精神的、あるいは知的労働のことではありません。ブラーマ(創造神)は、人類に頭脳労働だけで満ちて、繁栄することを要求したのではありません。肉体のヤジュナを通して繁栄しなさいということを創造神は語っているのです。つまり、肉体労働をすることによってです。他の宗教の聖典も同じことを命じています。聖書には、「お前は顔に汗を流してパンを得る」と書いてあります。このように、肉体労働というのは、この人生において我々に割り当てられた運命です。ですから、奉仕の精神でこれを行い、それをクリシュナ神に捧げるのが、一番良いことです。このような精神で生涯、労働をする人は皆、悪に染まることはなく、あらゆる束縛から解放されています。そのような人は、国王の兵士のようです。命令を実行することに満足しているのです。将軍と同じくらい尊い存在です。神の目には、両方が等しく尊いのです。なぜなら、神は人の態度にだけ目を注ぐからです。・・・
 この節では、我々は肉体労働をして奉仕をすべきだと語られています。人は、そのような労働をしなければ生きることができません。もし、人がこの法則を破ることがなかったならば、今のように苦しむこともなかったでしょう。金持ちが、膨大な富を手中におさめ、他方、大多数が貧困に苦しむこともなかったでしょう。神様は、偉大なる経済学者です。神には不可能はありません。我々であれば、将来に備えて物を蓄えることを完全に止めることはできないでしょう。しかし、神は決して蓄えたりはなさりません。なぜなら、神は心に思い描くだけで、この宇宙を破壊したり、創造することがおできになるからです。ですので、神様は、私たちにその日その日の備えだけをするように求めておられます。次の日に何かが必要であるなら、我々はそのために働かなければなりません。労働をしなければ、つまり、体を曲げて、身体を使って働かなければ、我々は破滅することになると神は警告しています。我々はあらゆる種類の苦しみに喜んで耐えなければならないと、神は命じています。人生のこの法則を尊重するなら、飢餓も、罪も、不道徳もこの世界に存在しないでしょう。この世界のために24時間労働する人は、邪悪な欲望に揺れ動くことは決してありません。(私が24時間と言いましたのも、人は、寝ているときも働きを続けるものだからです) 今日の我々のように、この世界の労働者が邪悪な欲望のとりこになっていれば、この世界は存続できないでしょう。金持ちはあらゆる贅沢を追求しています。労働者も、同じことをすれば、世界はどこに向かうでしょうか。人はあらゆる欲望を満たすために生まれたとする考えが、西洋では今や主流となっています。不法が蔓延しつつあります。もし人がシャベルやつるはしを持って働くなら、邪悪な欲望に心が乱されることがあるでしょうか。ですから、我々は、この規制に従うべきなのです。もし我々が肉体のヤジュナを適切に実行するなら、すべてが我々にとってうまくいくようになります。我々の魂および、この世界の良い点を伸ばしていくことになります。我々の頭と身体は魂に制御されることになり、澄み切った静けさに満たされます。・・・
 必要なことは、始めることです。信仰を持っている人は、困難があってもめげずに、使命を遂行します。そのような人は、失敗ということを知りません。失敗は確かにあると、世間が言ったとしても、この人は、失敗が何かを知りませんと言うでしょう。何事にも左右されない仕事とは、まさにこれです。このような人は、何かを望むこともありません。忍耐強く仕事に取り組みます。策略を巡らせることもありませんし、性急に結果を求めることもしません

April 13, 1926
    "Along with yajna the Lord created men."  Which type of yajna is meant here? Does the term have any special meaning? I think it has. The reference here is not to mental or intellectual work.  Brahma did not ask human beings to multiply and prosper merely by working with their minds; what He meant was that they should do so through bodily yajna, by working with the body. Scriptures of other religions enjoin the same thing. The Bible says: “With the sweat of thy brow thou shalt earn thy bread." Thus bodily labour is our lot in life; it is best, then, to do it in the spirit of service and dedicate it to Shri Krishna. Anyone who works in that spirit all his life becomes free from evil and is delivered from all bonds. Such a person is like a soldier in the King's army, who is content to carry out orders. He is as worthy as the General. Both have equal value in God's eyes, for He looks only to the attitude....
     This verse tells us that we should undertake bodily labour to do service. Man simply cannot live without such work. If he had not violated this law, he would not suffer as much as he does, the rich would not have become masters of immeasurable stores of wealth and the millions would not be suffering in poverty. God is a great economist. He is omnipotent. We cannot refrain completely from storing things for future use. But God never stores, for he can destroy and create the universe with a mere thought. He wants us, therefore, to provide only for each day. If we want anything the next day, we must labour for it. He has warned that we are doomed if we do not labour, if we do not bend the body and work with it. He has commanded that we should willingly endure every kind of suffering. If we honour this law in our life, there would be no hunger and no sin or immorality in this world. Evil desires will never disturb a man who labours all the twenty-four hours for the good of the world (I say twenty-four hours because one keeps working even in sleep.). If the labourers in the world were filled with evil desires as we are, the world could not last.  The rich seek all kinds of luxuries. If the workers, too, did that, where would the world be? In the West, nowadays the idea has come to prevail that men and women are born to gratify all their desires.  Adharma is being propagated. If people worked with the shovel or pick-axe, would they be disturbed with evil desires? We should submit ourselves, therefore, to this restraining law. If we do our bodily yajna properly, all will be well with us, we shall advance the good of our atman and of the world, our mind and body will be ruled by our atman and we shall be filled with serene peace....
     All that is necessary is to make a start. A man of faith will go ahead with his work, undeterred by difficulties. He knows no such thing as failure. Let the world believe in failure, he would say, I do not know what it is. This is what is meant by disinterested work. Such a person hopes for nothing, and works in patience; he resorts to no scheming and is never in too much hurry for the result.

2011年9月24日 (土)

糸車・独立・非暴力

 市民的不服従の機運が高まっているこの時に、今一度、繰り返しになったとしても、糸車と独立と非暴力とが、どれほど密接に関係しているかを、一つの記事の中で簡潔に述べる必要があるのではないかと言ってくださる方がありました。私は喜んで、そうしてみたいと思います。
 糸車は私にとっては、大衆の希望です。大衆は、糸車を失った時に、ささやかな自由を失ってしまいました。糸車は、村人たちにとっては、農業を補ってくれるものでした。そして、尊厳を得ていました。寡婦にとっては、友であり、慰めでした。これがあったおかげで、村人たちは怠惰にならずにすんでいました。糸車に付随して、その前後にたくさんの作業があったからです。綿繰り、綿梳き、整経、糊付け、染織などです。さらには、村の大工や鍛冶屋も忙しく働くことになりました。糸車のおかげで、70万の村々が、自給自足できていました。糸車がなくなって、搾油などの村の他の産業も消えていきました。これらの産業に代わるものは何もありませんでした。そのため村々はいろいろな仕事を失ってしまって、創造的な能力も、これらの仕事によって得ていたささやかな富もなくしてしまったのです。
 村の手工業が破壊されてしまった他の国々と比べてみても、我々には意味がありません。と言いますのも、他の国の村人たちは、失ったものを埋め合わせることができたからです。インドの村人たちには、何もありません。西洋の工業国は、他の国々を搾取していました。インドは、搾取された国です。ですから、村人たちは、独立したなら、最も自然なこととしては、糸車とその意味することのすべてを取り戻すことになるわけです。
 このように甦らせていくためには、知性があって愛国心にあふれたインド人が一丸となって無私の働きをしていくことが必要です。村の中で糸車のメッセージを広め、村人たちの生気のない目に一条の希望の光を灯す活動が必要なのです。これは、協力という壮大な取り組みであり、本来の成人教育でもあります。ひっそりとしていても、確実に命を与える糸車の革命となりましょう。
 20年間、糸車の活動に取り組んできた経験から、ここで私が述べてきたことが正しいことを私は確信しています。糸車は、貧しいイスラム教徒にもヒンズー教徒にも同じように助けとなります。5000万ルピーに近い金額が、あれこれ煩うこともなく、これら本当に大勢の村の職人たちの手に、分配されたのです
 ですから、いろいろな宗教に属する大衆の立場での独立を達成するには、糸車しかないと、私はためらうことなく言います。糸車によって、村はふさわしい地位を回復し、高い、低いの区別をなくすことができます。
 しかし、この国が非暴力を信じない限り、糸車によって独立を達成することはできません。実際、どこにも行けません。糸車は、それほど、興奮をそそられることではありません。自由を求めてやまない愛国者たちは、糸車を見下す傾向があります。彼らは、歴史の本の中にある糸車をむなしく眺めるだけです。自由を愛する人たちは、外国の支配者と戦って彼らを追い払うのだという熱い思いに燃えています。悪いことはすべて支配者のせいにしています。そして、自分たちの欠点はいっさい見ようとしません。彼らは、血の海を経て自由を獲得した国々の例を引き合いにだします。暴力に無縁の糸車は、彼らには実に単調に見えます。
 1919年にインドの自由を愛する人々に、独立への唯一確実な手段として非暴力が、そして非暴力のシンボルとして、糸車が紹介されました。1921年には、糸車が国旗の中に誇り高く描かれました。しかし、非暴力はインドの心に深く根付くことはありませんでした。そして、糸車も本領を発揮できませんでした。会議派の大多数が非暴力を心から信じない限り、本領を発揮することはないでしょう。彼らが本気で信じれば、もう議論する必要もなく、糸車以外に非暴力のシンボルはないことに、自分で気づくことでしょう。そして、糸車を普及させなければ、非暴力を見える形で表現できないことにも気づくはずです。非暴力がなければ、非暴力の不服従も存在しえないことは、共通の認識です。私の主張が間違っているかもしれません。私のデータは不完全かもしれません。しかし、私はこのように考えていますので、私が述べてきました条件が完全に整わない限り、私は、市民的不服従を宣言することができないのです。
ハリジャン1940年4月13日

CHARKHA-SWARAJ-AHIMSA
     A correspondent says now that civil disobedience is in the air, I must once more, even at the risk of repeating myself, summarize in a single article my argument showing that there is a vital connection between the charkha, swaraj and ahimsa. I gladly make the attempt.
     The spinning-wheel represents to me the hope of the masses.  The masses lost their freedom, such as it was, with the loss of the charkha. The charkha supplemented the agriculture of the villagers and gave it dignity. It was the friend and solace of the widow. It kept the villagers from idleness. For the charkha included all the anterior and posterior industries--ginning, carding, warping, sizing, dyeing and weaving. These in their turn kept the village carpenter and the blacksmith busy. The charkha enabled the seven hundred thousand villages to become self-contained. With the exit of the charkha went the other village industries, such as the oil-press. Nothing took the place of these industries. Therefore the villages were drained of their varied occupations and their creative talent and what little wealth these brought them.
     The analogy of the other countries in which too village handicrafts were destroyed will not serve us because, whereas the villagers there had some compensating advantages, India's villagers had practically none. The industrialized countries of the West were exploiting other nations. India is herself an exploited country. Hence, if the villagers are to come into their own, the most natural thing that suggests itself is the revival of the charkha and all it means.
     This revival cannot take place without an army of selfless Indians of intelligence and patriotism working with a single mind in the villages to spread the message of the charkha and bring a ray of hope and light into their lustreless eyes. This is a mighty effort at cooperation and adult education of the correct type. It brings about a silent and sure life-giving revolution of the charkha.
     Twenty years' experience of charkha work has convinced me of the correctness of the argument here advanced by me. The charkha has served the poor Muslims and Hindus in almost an equal measure. Nearly five crores of rupees have been put into the pockets of these lakhs of village artisans without fuss and tomtomming.
     Hence I say without hesitation that the charkha must lead us to swaraj in terms of the masses belonging to all faiths. The charkha restores the villages to their rightful place and abolishes distinctions between high and low.
     But the charkha cannot bring swaraj, in fact it will not move, unless the nation has faith in non-violence. It is not exciting enough. Patriots yearning for freedom are apt to look down upon the charkha. They will look in vain to find it in history books. Lovers of liberty are fired with the zeal to fight and banish the foreign ruler. They impute all the vices to him and see none in themselves. They cite instances of countries having gained their freedom through seas of blood. The charkha devoid of violence seems an utterly tame affair.
     In 1919 the lovers of the liberty of India were introduced to non-violence as the only and sure means to swaraj and to the charkha as a symbol of non-violence. The charkha found its proud place on the national flag in 1921. But non-violence had not gone deep into the heart of India, and so the charkha never came into its own. It will never come into its own unless the vast body of Congressmen develop a living faith in non-violence. When they do so they will, without needing any argument, discover for themselves that there is no other symbol of non-violence than the charkha, and that without its universalization there will be no visible expression of non-violence. It is common ground that without non-violence there can be no nonviolent disobedience. My argument may be false, my data may be faulty. But, holding the views I do, let me proclaim that without fulfilment of the conditions prescribed by me I simply cannot declare civil disobedience.
SEVAGRAM, April 9, 1940
Harijan, 13-4-1940

2011年9月16日 (金)

奉仕こそ真の力

 我々が第一にやらねばならないことは、この国の人々を人格者にすることです。我々が人格者にならなければ、どのような改革も不可能です。つい最近、スワラージ(独立・自治)を手にしたというのに、建設的な仕事がすでにもう停滞を始めているというのは、嘆かわしいことです。・・・・
 まずは、自らを浄める必要があります。国民会議派(独立運動の中心勢力となったインドの政党:以下、会議派)には常に建設的プログラムがありました。今、会議派は権力を手にしています。ではなぜ、我々のこの仕事が発展していないのでしょうか。我々にやる気がないからかもしれません。・・・我々の心が純粋でないから、状況がこのようであると言わざるを得ません。流れが作られました。こうすれば英国に打ち勝てるという考えに、人々はひかれました。村人たちも、どんどん我々のもとに群がってきました。この国にそのような目覚めが訪れて、我々は喜びました。しかし、先頭にいたのは、インテリ階級の人たちでした。その結果、手にした自由は、本物の自由ではありませんでした。闘いが終わったので、建設的プログラムに対する我々の関心も冷めていきました。建設的仕事は、闘争のための戦略でも、手法でもありません。建設的仕事は、生き方とも言えるでしょう。心と知性の両方でそれを受け入れた人だけが、進めていくことができます。
 ・・・国民会議派は、建設的仕事のための協会に名前を貸し、その運営指針を作ることもしました。しかし、会議派のメンバーは、そこに書いたことを実行することも、重荷を負うこともできませんでした。そのように我々はお手上げ状態なのです。・・・間もなく成年選挙権を手にすることになるでしょう。それは、結構なことです。しかし、成年選挙権を政治権力を手に入れる手段とみなせば、堕落した参政権の行使となるでしょう。
 建設的仕事のための組織の目的は、政治的な力を生み出すことにあります。しかし、もし、政権が引き渡された以上、骨折りの代償として政権は自分たちのものであるはずだと主張するならば、自ら品位を落とし、身の破滅となるでしょう。糸紡ぎ協会を例にとってみましょう。すべての協会の中で、メンバーが一番多いのがこの協会です。しかし、選挙人名簿に協会のメンバーを記載しようとしたことは一度もありません。ある時は、会議派の名簿に協会のメンバーの名前を記載したらどうかという提案がなされましたが、私はそれに反対しました。「会議派を乗っ取りたいのですか」と私は尋ねました。それは会議派の息の根を止めるにも等しい行為です。奉仕という権限を通して初めて、会議派は我々のものとなるのです。・・・実際に起こっていることですが、村の人々が我々のもとにやってきて、だれに投票したらよいか、我々にアドバイスを求めているのです。と言いますのも、村の人々は我々が真の奉仕者であり、利己的な野望をひそかに抱いたりはしていないことを知っているからです。
 今日では、政治は堕落してしまいました。政界に身を置く人々はみんな、汚れてしまっています。そこからは一切身を引きましょう。そうすることで、我々の影響力は増大します。我々の内面が純粋であればあるほど、我々の方で何もしなくても、我々はより強く人々の心をつかむことになります
 今や、私の目は開かれました。英国との闘争で非暴力の名のもとにやってきたことは、本物の非暴力ではなかったことに気付かされました。神は、意図的に私の目をふさいでくださっていました。私を通して、神の偉大な計画を成し遂げたかったからです。その目的が達成できましたので、神は私の目を再び開いてくださったのです。開かれた目で、私には何をしたらよいかがわかっています。・・・
 皆さんがここに集まっているのは、会議派の一翼である建設的仕事を担ってのことです。これについては、どのような委員会にも所属する必要はありません。みなさんの仕事は、大衆の中で行われます。憲法制定会議は今、憲法を作っています。文言を変えさせようと働かなくても良いのです。・・・我々は村をよみがえらせなければなりません。村が栄えるようにし、教育も施し、力づける必要があります。村にしかるべき地位が与えらないのであれば、憲法が何の役に立つでしょうか。・・・今の会議派では、我々が思い描いているような社会を実現することはできないのだと、知らねばなりません。最終的にどのような憲法が出来上がるかは、だれにもわかりません。それに携わっている方々に任せておきなさいと、私は言いたいのです。・・・チャルカ協会は、最大の協会です。資金もあります。地域分散型の政策を遂行中です。危機的状況にあったり、困難に直面していることに気付いていないわけではありません。我々は、もっと優秀で、上級のカディー・スタッフを養成する必要があります。そうしない限り、パンチャーヤト・ラジ(村落国家)を実現することはできません。チャルカ協会のスタッフは、単に自分たちの生計を得るためや、貧困の救済策として、紡ぎ手や織り手たちに賃金を分配するためだけにそこにいるのではありません。その望みにふさわしい目標は、非暴力の社会を作っていくこと、これだけです。しかし、これについては、ほとんど前進できていません。カディーのスタッフが、賃金のためだけにそこにいるのであれば、非暴力の社会を実現するという夢に別れを告げた方が良いです。成功するかどうかは、我々が最大限純粋になれるかどうかにかかっています。短気は致命的です。
 我々は、どちらかと言えば貧しいです。しかし、このように貧しいからと言って、失望したりはしません。やっと今、我々は気づきつつあるのですが、我々のスタッフは皆、都市出身の者たちです。彼らは、非暴力が何であるかすら知っていません。女性が私に糸を手渡す時、彼女はお金のために糸を紡いでいます。どうしてこの女性は、お金をそんなに欲しがるのでしょうか。そのもともとの原因は、貧困です。このおおもとの原因こそ、我々は撲滅しなければなりません。今、カディーはどこにあるでしょうか。カディーを着ている人々は、政治的な目的のためにそうしています。そこには良いところは何もありません。我々の取り組みは、ゆっくりかもしれません。しかし、それを通して、大きな力を獲得することになります。会議派の憲法については、忘れることにしましょう。と言いますのも、憲法が制定されてからも、我々の取り組みは継続していかねばならないからです。我々は、別のやり方で自分たちの目的を追求していかねばなりません。大臣になりたいという野望に屈してはなりません。
 本当に貧しい村人は、困窮という亡霊に取りつかれています。必需品を手に入れる以上のことは考えられません。この村人には、非暴力がわかりませんし、私も彼に非暴力の話をしたいとは思いません。私がするとすれば、この人が糸紡ぎを上手になり、まずまず最低限生活できる賃金を得られるようにしてあげることくらいです。我々の仕事が、しっかりさえしていれば、小規模でも構いません。2、3か月もすれば憲法制定の仕事は終わるでしょう。その後は何をすべきでしょうか。実際に行動を起こし、成功へと導く責任はあなた方の肩にかかっています。皆さんが心に描いているまさにそのままの憲法が手に入ったとしましょう。しかし、うまく機能させることができなければどうでしょうか。5年後には、次のように言う者が現れるでしょう。「あなたの出番は終わりです。今度は我々の番ですよ」と。皆さんは諦めねばなりません。そして、彼らが権力を握ろうとするでしょう。独裁体制を敷き、国民会議派を締め出すかもしれません。これと対照的に、権力は握らないが、人心を手中に握っている場合を考えてみましょう。誰でも願う人を選挙で選出して送り出すことができます。選挙人の支持を得ている限り、会派の一員になるならないの心配は忘れてしまうことです。根本的なことを考え、それをできるだけ大切にすべきです。自分をどの程度まで純粋にできたかが、唯一の基準となります。この精神に満たされたものが数人いるだけで、状況を変えることができます。人々はすぐにその変化を見て取り、それに対して反応が鈍いということはないはずです。努力を要する困難な仕事ではありますが、報いも大きいのです。

DISCUSSION AT CONSTRUCTIVE WORKS COMMITTEE MEETING  NEW DELHI, December 11/12, 1947
     The first thing we have to do is to improve our national character. No revolution is possible till we build our character. The pity is that though swaraj is so recent an achievement, there is already a slackness in constructive efforts....
     We must first purify ourselves. The Congress has always had the constructive programme. Now it has the power. Why is it then that our work is not progressing? It may be that we have no heart....  I can say that things are in such a state because our hearts are not pure. A current was generated. The people caught on to the idea that that was the way to overcome the British. Villagers too flocked to us in ever larger numbers. It gladdened us that there was such awakening in the country. But in the forefront were intellectuals.  And the result was that the freedom that came was not true freedom.  The fight being over, our interest in the constructive programme waned. Constructive work is not a strategy or a technique of fighting.  Constructive work connotes a way of life. It can be carried on only by men who have adopted it by the heart as well as by the intellect.
     ....The Congress lent the constructiv workers' Sanghs its name and also gave them the charter to function.  But the Congressmen failed to come up to the scratch and to shoulder the burden. Such is our bankruptcy....  Soon we shall have adult suffrage. That is a good thing. But to regard adult suffrage as a means of capturing political power, would be to put it to corrupt use.
     The objective of the constructive works organizations is to generate political power. But if we say that political power having come, it must be ours as a price for our labours, it would degrade us and spell our ruin. Take the case of the Charkha Sangh. It has the largest membership of all the Sanghs. But we have never endeavoured to get its members enrolled on the voters' list. It was suggested at one time that we should get their names enrolled on the Congress register.  I opposed it.  "Do we want to capture the Congress?", I asked. That would be tantamount to killing it. The Congress can be ours only by right of service....  What actually happened was that the people from the village came and sought our advice as to whom they should give their vote, because they knew that we were their true servants and had no axe to grind.
     Today politics has become corrupt. Anybody who goes into politics gets contaminated. Let us keep out of it altogether. Our influence will grow thereby. The greater our inner purity, the greater shall be our hold on the people, without any effort on our part.
     My eyes have now been opened. I see that what we practised during the fight with the British under the name of non-violence, was not really non-violence.  God had purposely sealed my eyes, as He wanted to accomplish His great purpose through me. That purpose being accomplished, He has restored to me my sight. Now I can see with open eyes what is to be done....
     You have met here as the constructive wing of the Congress. For that you need not get into any committee. Your work is among the masses.  The Constituent Assembly is today forging the Constitution. Do not bother about making changes in it....We have to resuscitate the village, make it prosperous and give it more education and more power. What good will the Constitution be if the village does not find its due place in it?... We must recognize the fact that the social order of our dreams cannot come through the Congress of today. Nobody knows what shape the Constitution will ultimately take.  I say, leave it to those who are labouring at it.... The Charkha Sangh is the biggest Sangh. It has funds. It is pursuing the policy of decentralization. I am not unaware of its perils and its difficulties. We have to create a superior, more advanced type of khadi worker. Not till then, shall Panchayat Raj become a reality. The workers of the Charkha Sangh are not there merely to earn a living for themselves or merely to distribute some wages to the spinners and weavers, etc., by way of poor relief. The only goal worthy of their ambition is to create a non-violent order of society. But, in this they have not made much headway. If our khadi workers are there for wages only, then we had better bid good-bye to the dream of realizing a non-violent social order. The success will depend on our uttermost purity. Impatience would be fatal.
     We are today rather poor. But this poverty does not discourage me. Only now we are coming to realize that all our workers are from cities. They do not even know what non-violence is. When a woman gives me yarn she does it for money. But why does she covet money?  The root cause is poverty. It is that root we have to destroy. Where is khadi today? The people who wear khadi do so to gain political ends.  There is no credit in it. Our work may be slow but we can generate great strength through it. Let us forget about the Congress Constitution, because even after the Constitution has been given shape our work must go on. We have to pursue our ends in a different way.  You must not succumb to the desire to become ministers.
     The really poor villager is haunted by the spectre of destitution.  He cannot see beyond the satisfaction of his primary needs. The villager does not understand non-violence, nor do I talk to him of it, but I try only to see that he becomes a good spinner and gets a fair minimum subsistence wage. I do not mind if the volume of our work is small, so long as it is solid. Constitution-making will be over in a few months. What next? The responsibility of working it and making a success of it will rest on you. Suppose you get a constitution after your heart, but it does not work. After five years, someone will say: 'You had your innings, now give us a chance.'  You will have to give in and they may try to seize power, set up a dictatorship and strangulate the Congress. Per contra, suppose you do not assume power but gain hold on the public, you will be able to return at the polls whomsoever you may wish. Forget membership so long as the voters are in your hand. Think of the root and take care of it as much as you can, and make self-purification the sole criterion. Even a handful imbued with this spirit will be able to transform the atmosphere. The people will soon perceive the change and they will not be slow to respond to it. Yours is an uphill and difficult task but it is full of rich promise.
vol.98 pp.34-38

2011年9月 9日 (金)

経済の基本原則

 インド中からカディー(手紡ぎ・手織り綿布)の注文が届いていることを、皆さんも喜んでくださることでしょう。カディーの在庫はすべて売り切れてしまいましたが、注文はまだどんどん来ています。しかし、だからと言って、もうこれ以上カディーを注文してはいけないと、思わないでいただきたいのです。人々がカディーを信じることをやめたために、カディーの生産が止まってしまいましたが、そうでなければ、私たちはカディーを山ほど生産できるくらい素晴らしい状態でいられたはずです。また、私はカディーが売れることを望んではいますが、カディーは大変尊いものですから、本当には必要でないのに、たまっている在庫を減らすためだけに、カディーを注文するような人がいないことを望みます。手で紡いだ糸から作られたカディーは、私にとって神聖なものです。ですから、そのようなカディーが処分されるようなことがあってはなりません。もっと言えば、本当には必要ではないカディーを購入することは、この国をだめにします。今私たちが着ているような立派な、つまり外国や工場で作られた衣類の代わりに、カディーを着るようになって初めて、カディーは賢く用いられるようになり、そうなって初めて、インドの衣類の不足という問題を克服することに成功するのです。ですから、決まりとして守ってほしいのですが、いろいろな種類のドレスを着ている人は、必要な衣類の数を減らす必要があります。そうすることで、利用できる衣類が足りないという問題を緩和することができますし、本当に必要な量を確保するうえでも、できる場合は常にカディーを身に着けるべきです。その結果、人々に衣類を取っておくことができ、衣類に使うお金も有効に活用できるようになります。お金が少数の人の手に渡る代わりに、何千もの人々に分配されることになるからです。生産して消費するだけでは、十分ではありません。そうする際に、頭を働かせる必要があります。生産において、また、消費の仕方においても、できるだけ多くの人の利益となるようなやり方が整えられねばなりません。これこそが、経済の基本原則です。この原則が破られる場合にのみ、人々は欠乏状態を味わうことになるのです。ですから、カディーの需要があるというそれだけでは、私は嬉しくありません。
Navajivan, 23-5-1920

     The reader will be glad to know that we have been receiving orders for khadi from all over India. All the stocks of khadi have been sold out and orders are still pouring in. But people should not understand from this that one should order no more khadi. Because people had lost faith in it, the production of khadi has stopped but otherwise our position is so good that we can produce heaps and heaps of it. Besides, though I want khadi to be sold, I place so high a value on it that I do not want anyone to order it, if it is actually not needed, just in order to reduce accumulated stocks. Khadi made from hand-spun yarn is sacred to me, so that such khadi is not to be thrown away. Moreover, consumption of khadi with-out real need will harm the country. Khadi will have been wisely used when we start wearing it in place of the fine cloth or foreign or mill-made cloth now used by us. Only then shall we succeed in overcoming the shortage of cloth in India. The rule, therefore, is that people who use a great variety of dresses should reduce their needs of cloth-so that the pressure on available cloth may be reduced and even in meeting their genuine needs they should use khadi wherever they can. This will spare cloth for the people and the money spent over cloth will have been well used, for, instead of a few people earning it, it will be distributed among thousands. It is not enough that we produce and consume; we should use our discretion in doing so. Production--and the manner of consumption too--should be so organized as to benefit the maximum number of people. This is the simple principle of economics. People starve only where this is violated. Hence a demand for khadi by itself will not please me.
Navajivan, 23-5-1920

2011年9月 4日 (日)

断食はハンストではない

 断食は、どのような形態であっても、ハンストと同質だと見なされてはなりません。あるいは政府に圧力を与えるための手段と見なされてもいけません。サティヤーグラハの実行者にとっては、市民的不服従のために必要とされる訓練です。自らの誓いを熟考する時と考えるべきです。そして、他の人々にとっては、どれほど気持ちが傷つけられたかを示すある種ささやかな手段となります。
 ・・・
 人々が政治的な討論や集会に参加しないのは、たしかに正しいことなのです。しかし、きわめて重大なことについては、ここで述べてきたような非常に限定的なやり方で自分たちの気持ちを表現する権利は、確かにあると、私は思っています。

     The fast is not to be regarded, in any shape or form, in the nature of a hunger-strike, or as designed to put any pressure upon the Government. It is to be regarded for the satyagrahis as a necessary discipline to fit them for civil disobedience, contemplated in their pledge, and for all others, as some slight token of the intensity of their wounded feelings.
     .....though it is unquestionably the right thing for them not to take part in political discussion and gatherings, in my opinion they have an undoubted right to express, upon vital matters, their feelings in the very limited manner herein suggested.
CONGRESS REPORT ON THE PUNJAB DISORDERS  March 25, 1920

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