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2011年7月

2011年7月30日 (土)

浄化を促す運動

 ローラット法案が公表された時、人間の自由をあまりにも制限する法案なので、最大限の抗議をしなければならないと、私は感じました。..... しかも、つぶされてしまったり、暴力へと発展していかないように、これから行う運動には、明確な方向付けがなされなければならないということも、感じました。
 ですから私は思い切って、市民的抵抗の面を強調して、サティヤーグラハをこの国に提示しました。そして、これは純粋に自分の内面に向かい、浄化を促す運動ですので、4月6日の1日を、あらゆる仕事の手を休めて断食と祈りに捧げるように提案したのです。.....この提案を広めるためには、昨年の3月24日にマドラスで次のメッセージを公表することしかしませんでした。:
 「サティヤーグラハは、これまでに何度か集会で説明してきたように、本来、宗教的な行動です。心を浄め、悔い改める過程を言うのです。苦しみを自分で引き受けることで、改革を実現し、憤りの救済を目指すのです。....

     When the Rowlatt Bills were published, I felt that they were so restrictive of human liberty that they must be resisted to the utmost..... I felt, too, that the oncoming agitation needed a definite direction, if it was neither to collapse nor to run into violent channels.
     I ventured therefore to present satyagraha to the country, emphasizing its civil resistance aspect. And as it is purely an inward and purifying movement, I suggested the observance of fast, prayer and suspension of all work for one day--the 6th of April.....  I took no steps to further the idea beyond publishing the following message on the 24th March last at Madras:
     Satyagraha, as I have endeavoured to explain at several meetings, is essentially a religious movement. It is a process of purification and penance.  It seeks to secure reforms or redress of grievances by self-suffering....
CONGRESS REPORT ON THE PUNJAB DISORDERS  March 25, 1920
vol.20 pp.42-43

2011年7月29日 (金)

魂の力

 サティヤーグラハの闘士は、負けるということを知りません。疲れを知らずに、真理のために闘っているからです。闘いの中で命を落としても、それは救いの御業です。そして、刑務所は、自由に至る門です。
 サティヤーグラハは、魂の力とも呼ばれています。死が運動の停止ではなく、最高点であるというのを、サティヤーグラハの闘士が確信するには、内なる魂の存在をはっきりと確認する必要があります。身体は、自己を表現するための道具に過ぎません。身体があることで、相手が真理を悟る邪魔になっているのであれば、喜んで身体を手放します。この闘士の基盤が、この真理だからです。もし、相手の考えを変えることができるものがあるとすれば、それは、自分の身体を喜んで捧げることであるに違いないと、心から信じて、自分の身体を手放します。魂は、身体が朽ちてもなお存在し続けることを知っているので、真理が勝つのを、性急にも今の身体で見届けたいと思ったりはしません。実際、相手に真理を悟ってもらうためには、命を捧げることさえもできる、そこにこそ、勝利があるのです。サティヤーグラハの闘士が今現在、表明しているのが、この真理です。
 サティヤーグラハの闘士は、相手に危害を加えることは決してありませんし、いつも訴えかけています。やさしく諭すことで相手の理性に訴えかけたり、自らを犠牲にささげることで相手の心に訴えます。ですので、サティヤーグラハは二倍祝福されます。それを実践する人が祝福され、実践した相手も祝福されるからです。

     A satyagrahi does not know what defeat is, for he fights for truth without being exhausted. Death in the fight is a deliverance, and prison a gateway to liberty.
     It is called also soul-force, because a definite recognition of the soul within is a necessity if a satyagrahi is to believe that death does not mean cessation of the struggle but a culmination. The body is merely a vehicle for self-expression; and he gladly gives up the body, when its existence is an obstruction in the way of the opponent seeing the truth, for which the satyagrahi stands. He gives up the body in the certain faith if anything would change his opponent's view, a willing sacrifice of his body must do so. And with the knowledge that the soul survives the body, he is not impatient to see the triumph of truth in the present body. Indeed, victory lies in the ability to die in the attempt to make the opponent see the truth, which the satyagrahi for the time being expresses.
     And as a satyagrahi never injures his opponent and always appeals, either to his reason by gentle argument, or his heart by the sacrifice of self, satyagraha is twice blessed; it blesses him who practises it, and him against whom it is practised.
CONGRESS REPORT ON THE PUNJAB DISORDERS  March 25, 1920
vol.20 p.41

2011年7月28日 (木)

サティヤーグラハの闘士とは

 ダニエルが自らの良心に反するメディアとペルシャの法律を無視した時[聖書:ダニエル書参照]、そして、その不従順に対する罰をおとなしく受けた時、彼は、最も純粋なサティヤーグラハを実行したのです。ソクラテスは、アテネの若者らに、自分が真理だと確信していることを説くのを遠慮したりはしませんでした。そして、勇敢にも死刑に処せられたのです。この時、彼は、サティヤーグラハの闘士でした。.....忘れないでいただきたいのですが、ダニエルもソクラテスも、迫害者に対してどんな敵意も抱いてはいませんでした

     When Daniel disregarded the laws of the Medes and Persians which offended his conscience, and meekly suffered the punishment for his disobedience, he offered satyagraha in its purest form.  Socrates would not refrain from preaching what he knew to be the truth to the Athenian youth, and bravely suffered the punishment of death. He was, in this case, a satyagrahi.....It must be remembered, that neither Daniel nor Socrates had any ill will towards their persecutors.
CONGRESS REPORT ON THE PUNJAB DISORDERS  March 25, 1920
vol.20 p.40

2011年7月26日 (火)

真理に固く立つこと

 サティヤーグラハ(ヒンディー語で〈真理の把持〉の意)は、受動的抵抗とは全く違います。北極と南極ほど、遠く隔たっています。・・・
 その根本にある意味は、真理に固く立つということであり、つまり真理の力です。愛の力、魂の力と呼んだこともあります。サティヤーグラハを実践する中で、まず最初から、私は次のことに気づきました。真理を追究するのであれば、敵に危害を加える暴力は認められませんし、忍耐と憐れみによって、過ちを避けねばならないのです。ある人には、真理と思えることでも、他の人には誤りと思われるかもしれません。そして、忍耐とは自己犠牲を意味します。ですから、この教えが意味することは、敵に危害を加えることによってではなく、自分自身が苦しむことによって、真理を守るということになります。
 ・・・サティヤーグラハは、一般の人には、主に市民的不服従あるいは市民的抵抗と映ります。犯罪ではないという意味で、市民的と言われます。
 犯罪者は、こそこそと法律を破り、刑罰を免れようとします。しかし、市民的抵抗者はそうではありません。自分が所属する国家の法律に彼が従うのは、刑罰が怖いからではありません。社会の安寧のためになると考えるからです。しかし、時には、まことにまれなことですが、法律が余りにも不当であるために、それに従うことは、不名誉だと思われる事例が生じます。その時には、彼は、堂々としかも市民的なやり方で、法律を破り、その違反に対する刑罰を静かに甘受するのです。

     Satyagraha differs from passive resistance as North Pole from South....
     Its root meaning is holding on to truth, hence truth-force. I have also called it love-force or soul-force. In the application of satyagraha, I discovered in the earliest stages that pursuit of truth did not admit of violence being inflicted on one’s opponent but that he must be weaned from error by patience and sympathy. For what appears to be truth to the one may appear to be error to the other. And patience means self-suffering. So the doctrine came to mean vindication of truth, not by infliction of suffering on the opponent, but on one's self.
     ....satyagraha largely appears to the public as civil disobedience or civil resistance. It is civil in the sense that it is not criminal.
     The law-breaker breaks the law surreptitiously and tries to avoid the penalty; not so the civil resister. He ever obeys the laws of the State to which he belongs not out of fear of the sanctions but because he considers them to be good for the welfare of society. But there come occasion, generally rare, when he considers certain laws to be so unjust as to render obedience to them a dishonour. He then openly and civilly breaks them and quietly suffers the penalty for their breach.
STATEMENT TO DISORDERS INQUIRY COMMITTEE  [SABARMATI,January 5, 1920]

2011年7月22日 (金)

非協力運動としてのスワデシ(国産品愛用)

 非協力とは、自己犠牲の鍛錬にほかなりません。とどまるところを知らない犠牲を捧げることができる国は、どこまでも向上できると私は信じています。犠牲が純粋であればあるほど、より速く前進できます。スワデシ(国産品愛用)は、男女、子供を問わず、手始めとして、人々に純粋な自己犠牲を行う機会を提供してくれます。それゆえ、我々がどの程度犠牲を払うことができるかの、試金石となります。・・・・・大多数のインド人が、外国製の布を身にまとったり、使用することを拒否し、自分たちの家庭で作ることのできる簡素な布に満足するならば、そのことは、我々が必要な物を確保するための組織力、活力、協力体制、自己犠牲を持っていることの証明となります。国民がどれほど連帯しているかを驚異的に示すことになります。
 このような成果を現実にするには、願うだけでは無理です。どんなに有能で、真摯な人であっても一人ではできません。インド中のいたる所にスワデシのお店を立ち上げても、だめです。どんどん生産して、うまく流通させることによってのみ、これが可能となります。生産するとは、大勢の女性が、各家庭で糸を紡ぐことを意味します。そのためには、 綿打ち済みの篠綿を届け、糸を回収し、労賃を支払うことをまじめにやってくれる男性たちも必要です。さらに、糸紡ぎ車を何千台も作らなければなりません。代々続く機織り職人がその崇高な天からの使命に再び従事するよう彼らを促し、彼らに家庭で紡いだ糸を供給し、仕事を始められるようにする必要があります。非協力の一項目としてのスワデシは、私にとって、このように力強い運動なのです。しかし、そのような力がないと卑下することはありません。このことのために働くすべての人が、何かをなしてくれることを私は期待しています。他に何もできなくても、生産を増やし、そして流通を増やすことで、まず、スワデシを進展させることができるなら、何かが達成できると期待しているのです。すでにインドで生産され、流通している布に満足するなら、それだけで、その輪の中に入っていることになります。
Young India, 25-8-1920

     Non-co-operation is nothing but discipline in self-sacrifice.  And I believe that a nation that is capable of limitless sacrifice is capable of rising to limitless heights. The purer the sacrifice the quicker the progress. Swadeshi offers man, woman and child an occasion to make a beginning in self-sacrifice of pure type. It therefore presents an opportunity for testing our capacity for sacrifice....  If crores of people will refuse to wear or use foreign cloth and be satisfied with the simple cloth that we can produce in our homes, it will be proof of our organizing ability, energy, co-operation and self-sacrifice that will enable us to secure all we need. It will be a striking demonstration of national solidarity.
     Such a consummation cannot be achieved for the mere wish. It cannot be achieved by one man, no matter how capable and sincere he may be. It cannot be achieved by dotting India with swadeshi stores.  It can only be achieved by new production and judicious distribution.  Production means lakhs of women spinning in their own homes. This requires earnest men to be engaged in honestly distributing carded cotton and collecting yarn and paying for it. It means manufacture of thousands of spinning-wheels. It means inducing the hereditary weavers to return to their noble calling and distributing home-spun yarn amongst them and setting their manufactures. It is thus only as an energizing agent that I can think of swadeshi as a plank in non-cooperation.  But it is not to be despised in that capacity. And I hope that every worker for the cause, even if he can do nothing else, will have done something if he can advance swadeshi first by increasing production and then distribution. He would be simply moving in a circle if he is satisfied with distributing cloth that is already being manufactured in India.
Young India, 25-8-1920 

2011年7月 9日 (土)

非協力・非暴力の積極性

 人は、命を創造できないのですから、どんなに下等な生物であろうとも、生きている命を奪う権利はないのだと、私は今でも確信しています。破壊する大権を持っているのは、生きとし生けるものを創造された神だけです。害を与えないという消極的な姿勢だけがアヒンサー(不殺生・非暴力)ではなく、愛、つまり、悪をなすものに対しても良い行いをするという積極的姿勢こそがアヒンサーだとする解釈を、私は受け入れています。しかし、それは、悪人が悪を続けることを助けたり、そのような悪を受動的に受け入れて容認することではありません。その反対で、愛とは、アヒンサーの積極的状態とは、悪人との付き合いを断って、悪人に抵抗することをあなたに要求します。たとえ、そのためにその人が立腹したり、肉体的に傷ついてしまってもです。ですから、もし私の息子が、恥ずべき生活を送っているなら、彼を援助し続けることで、その生活を助けることはしません。逆に、息子を愛すればこそ、たとえ息子が死ぬようなことになろうとも、彼への支援をすべて取りやめねばならないのです。そして、この愛ゆえに、息子が悔い改めるなら、彼を迎えて、胸に抱きしめるほかしようがありません。しかし、物理的な力で無理やり息子を立ち直らせることはしません。これが、放蕩息子の物語が教えてくれる教訓だと、私は考えます。
 非協力というのは、受動的な状態ではありません。非常に積極的な状態です。実際、物理的な抵抗や暴力よりも積極的です。受動的抵抗というのは、誤解される呼称です。私が使っております非協力というのは、非暴力でなければなりません。ですから、懲罰的だったり、復讐心に駆られたりはしませんし、悪意、敵意、憎しみが土台にあるわけでもありません。このことから、次のことが言えます。ダイヤー将軍(注:集会中の市民に無差別の発砲を命じた)に仕え、彼が無実の人々を銃撃するのに協力することは私にとって罪です。しかし、彼が病気で苦しんでいるのなら、元気を回復するよう看病することは、私にとっては赦しと愛の実戦となるでしょう。私は、この文脈で協力という言葉を用いることはできません。・・・私はこの政権が犯罪行為を積み重ねるのをやめさせるためなら、何千回でもこの政権に協力することでしょう。しかし、犯罪行為を続けるためであれば、一瞬たりとも協力するわけにはいきません。もし、私がこの政権から頂いた称号を保持していたり、兵役についたり、裁判や学校を支えたりするなら、悪事を働いたかどで有罪となりましょう。ジャリアンワーラーでの無辜の民の血で染まった手から豊富に物をもらって暮らすよりも、お椀を持って物乞いするほうがましです。 7千万人ものわが兄弟の宗教心を気ままに踏みにじった人から、甘い言葉を頂戴するよりは、逮捕状を頂く方がはるかに良いことです。
 ・・・良いことをするためなら暴力も肯定されると、ギータ(バガヴァッドギーター《ヒンドゥー教徒の座右の聖典とされる宗教叙事詩で、マハバーラタの一部をなす》)が説いているとは、私は信じていません。私たちの心の中で繰り広げられている闘いをそれは見事に描き出しているのです。神から霊感を受けた著者が、歴史上の出来事を用いて、たとえ命を危険にさらしても義務を遂行しなさいという教訓について、説き聞かせています。結果がどうなろうとも、義務は遂行しなければならないということを、説いて聞かせているのです。なぜなら、死を免れない人間は、肉体という囲いに制約され、自分以外の行動を支配できないからです。ギータは光と闇の力を対比し、この二つが、いかに決定的に異なっているかを論証しています。
 イエスは、私が思いますに、優れた策略家でした。彼は実際に、カエサルの物はカエサルに返したのです。悪魔の相手もしてやりました。そして、イエスはいつも悪魔を遠ざけていました。悪魔の呪文に屈したことは一度もないと、報告されています。イエスの時代では、政治的駆け引きは、祭司やパリサイ人らの策略にはまらないように人々を戒めて、人民の幸福が奪われないようにすることでした。それに対して、祭司やパリサイ人らは、人民の生活を支配し、型にはめようとしていました。今日では、政府のシステムが、我々の生活のあらゆる領域に影響を与えるようになっています。我々の存在そのものが脅かされています。ですから、国民の幸福を守りたいのであれば、総督らの行いに、宗教的見地から関心を持ち、彼らが道徳の教えに従うことを断固主張して、彼らに道徳的影響を行使しなければなりません。ダイヤー将軍は、確かに『道徳的影響』を行使してくれましたが、それは大量殺戮という行為によってです。非協力運動を推進している人々には、自己否定、自己犠牲、自己浄化という過程を経ることで、道徳的影響力を行使してほしいと願っています。・・・
ヤング・インディア 1920年8月25日

     I still believe that man not having been given the power of creation does not possess the right of destroying the meanest creature that lives. The prerogative of destruction belongs solely to the Creator of all that lives. I accept the interpretation of ahimsa, namely, that it is not merely a negative state of harmlessness but it is a positive state of love, of doing good even to the evil-doer. But it does not mean helping the evil-doer to continue the wrong or tolerating it by passive acquiescence--on the contrary, love, the active state of ahimsa, requires you to resist the wrong-doer by dissociating yourself from him even though it may offend him or injure him physically. Thus if my son lives a life of shame, I may not help him to do so by continuing to support him; on the contrary, my love for him requires me to withdraw all support from him although it may mean even his death. And the same love imposes on me the obligation of welcoming him to my bosom when he repents. But I may not by physical force compel my son to become good--that in my opinion is the moral of the story of the Prodigal Son.
     Non-co-operation is not a passive state, it is an intensely active state--more active than physical resistance or violence. Passive resistance is a misnomer. Non-co-operation in the sense used by me must be non-violent and therefore neither punitive nor vindictive nor based on malice, ill will or hatred. It follows therefore that it would be sin for me to serve General Dyer and co-operate with him to shoot innocent men. But it will be an exercise of forgiveness or love for me to nurse him back to life, if he was suffering from a physical malady.  I cannot use in this context the word co-operation....  I would co-operate a thousand times with this Government to wean it from its career of crime, but I will not for a single moment co-operate with it to continue that career. And I would be guilty of wrong doing if I retained a title from it or “as service under it or supported its law-courts or schools”. Better for me a beggar's bowl than the richest possession from hands stained with the blood of the innocents of Jallianwala. Better by far a warrant of imprisonment than honeyed words from those who have wantonly wounded the religious sentiment of my seventy million brothers.
     .... I do not believe that the Gita teaches violence for doing good.  It is pre-eminently a description of the duel that goes on in our own hearts. The divine author has used a historical incident for inculcating the lesson of doing one's duty even at the peril of one's life. It inculcates performance of duty irrespective of the consequences, for, we mortals, limited by our physical frames, are incapable of controlling actions save our own. The Gita distinguishes between the powers of light and darkness and demonstrates their incompatibility.
     Jesus, in my humble opinion, was a prince among politicians.  He did render unto Caesar that which was Caesar's. He gave the devil his due. He ever shunned him and is reported never once to have yielded to his incantations. The politics of his time consisted in securing the welfare of the people by teaching them not to be seduced by the trinkets of the priests and the pharisees. The latter then controlled and moulded the life of the people. Today the system of Government is so devised as to affect every department of our life. It threatens our very existence. If therefore we want to conserve the welfare of the nation, we must religiously interest ourselves in the doings of the governors and exert a moral influence on them by insisting on their obeying the laws of morality. General Dyer did produce a “moral effect” by an act of butchery. Those who are engaged in forwarding the movement of non-co-operation, hope to produce a moral effect by a process of self-denial, self-sacrifice and self-purification....
Young India, 25-8-1920

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