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2010年1月

2010年1月23日 (土)

パンくずや古着を与えることは慎みたい

裸でいる人たちに衣類を差し上げて彼らを侮辱することは、私が絶対にやってはならないことです。彼らは衣類を必要としているのではありません。彼らが切望している仕事こそ提供すべきなのです。彼らのパトロンになるという罪を犯すつもりはありません。しかし、彼らを落ちぶれさせる手助けを私がしていたのだと気づいてしまいましたので、私は彼らが名誉を感じられるようにして差し上げたいのです。パンくずや古着を与えることは慎みたいと思います。そうではなく、私の食べ物や衣類の最高のものをさしあげたいですし、仕事を通して彼らと関わっていきたいのです。

 家が火事の時は、そこに居住する人は皆、外に逃げ、各自がバケツを持って火を消そうとします。私の周囲の人々がみな、食べ物がなくて死にかけている場合、私に許される唯一の仕事は、飢えた人たちを食べさせることです。インドは火事であるというのが、私が確信していることです。なぜなら、雄々しさが日々しなびていっているからです。飢えて死にかけています。仕事がないために食べ物を買うことができないからです。クルナ州(現バングラデシュ南部の州)で人々がお腹をすかせているのは、仕事ができないからではありません。仕事がないからです。・・・都市はインドではありません。75万の村々での生活がインドです。都市は、村にすがって生きています。都市の住人の富は、他の国から運んできたのではありません。彼らは、ヨーロッパ、アメリカ、日本の財閥のための仲介業を買って出ました。都市は、過去200年にわたって、欧米や日本の財閥と協力して、 搾取に関わってきたのです。インドは日毎に貧しくなっているというのが、私が経験から確信していることです。足にほとんど血が流れなくなってしまっています。注意を払わなければ、インド全体が崩壊してしまいます。
 空腹を抱えながら何もしていない人々に対して、神が現れるとすれば、それは仕事と賃金として食料を約束するという形以外には考えられません。神は人を創造し、その糧は労働によって得るようにされました。働くこともしないのに食べている者は盗人であると神は言われます。インド人の80%が、1年の半分を盗人として暮らすことを余儀なくされています。インドが一つの巨大な刑務所となったとしても、驚くことではないのではありませんか? 飢えという問題があるから、インドは糸車へと向かうことになったのです。糸車を回そうという呼びかけは、もっとも尊い呼びかけです。なぜなら、愛の使命を果たすことだからです。その愛が、スワラージ(独立・自治)です。糸車には、「心を鎮める」作用があります。必要な肉体労働に捧げている時間は、 そのような時間であるということができます。今日では、動物以下の境遇になってしまっている何百万もの人々のことを考えるべきです。彼らは、ほとんど死にかけているのです。この国の死に瀕している男女にとって、糸車は起死回生の一陣です。「食べ物を得るために働く必要があるわけではない私が、どうして糸を紡ぐべきなのか?」とあなたはお尋ねになることでしょう。「私は自分のものではない食物を食べているからです」というのが、その返答です。私は同国の人々の物を横取りして生きているのです。手元にあるあらゆるお金について、それがあなたのポケットに入るまでの道のりを辿ってみてください。そうすれば私が書いたことに真実があるとわかるでしょう。持て余すしかない時間の活用法が見つからなければ、何百万もの人々にとってスワラージも意味がありませんが、このスワラージは近いうちに現実のものとすることが可能です。ただし、糸車の復活が不可欠の条件です、。
 私は成長を真から求めています。私は自決権を確かに求めています。私は本当に自由がほしいのです。しかしこれらは全て、魂のためにです。青銅器時代の方が、石器時代よりも進歩しているのだろうかと、私には疑問です。私にとってはどうでも良いことです。我々の知性やあらゆる技能を注ぐべきであるのは、魂の進化のためにです。近代様式に身を固めた人間が、人類のために何か永続する、新しい発見を行っているかもしれないと想像することはたやすいことです。しかし、道を照らしたり火縄銃に点火するのに小さな火打ち石と爪だけを持ち、新しい賛美の歌を歌い続け、うめき声をあげる世界に平和と地球を愛するメッセージを伝えている、そういう人が存在する可能性を想像することは、もっとたやすいことです。糸車を回そうという訴えは、肉体労働がいかに尊いかを認識してくださいという訴えです。
 糸車を失って我々は左の肺を失ったと、私は主張しています。そのため、我々は急速に進行する肺結核を患っています。糸車を取り戻すなら、この致死の病の進行を食い止めることになります。たとえ短時間でも、皆が必ずやらねばならないことがありますが、独立を達成しようというこの時期のインドでは、糸車がまさにそれに相当します。そして、大多数の人々は、絶えず糸車を回す必要があります。
 我々が外国製の衣類を好むから、糸車はその尊厳ある立場を失ってしまいました。ですから、外国製の衣類を身につけることは罪であると、私は考えます。私は、自分が経済と倫理の間にはっきりとした境界を定めていないことを、認めねばなりません。個人あるいは国家の道徳性を損なう経済は、道徳に反していますので罪悪です。ですから、ある国が他の国を犠牲にすることを許すような経済は、不道徳であり、「低賃金および過重労働」によって作られた商品を購入し、使用することは罪深いことです。アメリカ産の小麦を食べ、隣人の穀物商にお客が来なくなり、困り果てているのを顧みないというのは罰当たりなことです。同様に、私がリージェント通り(ロンドンのウエスト・エンドにある高級ショッピング街)の最新のファッションを身にまとうのも悪いことです。と言いますのも、もし隣人が紡ぎ、織った布を身に着けさえしていれば、私が衣類を手に入れるだけでなく、彼らも食べ物と着る物を手にすることになると知っているからです。私が罪なことをしていたと突然気づいてしまった時に、私は外国製の衣類を炎にくべることで、自分を浄化するしかなかったのです。以後は、近隣の人々が作ってくださる目の粗いカディーで満足しています。隣人はこの仕事をやめてしまって、糸車を手に取ろうとしてくれない可能性もあるとわかってからは、自らが糸車を手にする必要がありました。そして、このように普及をはかっているわけです。
 私はこの詩人(タゴール:衣類を燃やすくらいなら貧しい人々に提供したらよいとガンジーに反論した)にあえて申し上げたいのですが、私が火にくべなさいと言っている衣類は、彼のものであるはずです。もしそれらが貧しい人々や衣類に事欠く人々のものであると、彼が知っていたのなら、とっくの昔に貧しい人々に、もともと彼らのものであった衣類を返していたことでしょう。所有する外国製の衣類を燃やすことで、私は自らの恥を燃やしているのです。裸でいる人たちに衣類を差し上げて彼らを侮辱することは、私が絶対にやってはならないことです。彼らは衣類を必要としているのではありません。彼らが切望している仕事こそ提供すべきなのです。彼らのパトロンになるという罪を犯すつもりはありません。しかし、彼らを落ちぶれさせる手助けを私がしていたのだと気づいてしまいましたので、私は彼らが名誉を感じられるようにしてさしあげたいのです。パンくずや古着を与えることは慎みたいと思います。そうではなく、私の食べ物や衣類の最高のものをさしあげたいですし、仕事を通して彼らと関わっていきたいのです。
 非協力もスワデシ(国産品愛用)の運動も、排他的な主張ではありません。私は控えめなものですから、非協力、非暴力、スワデシのメッセージは世界に向けて語られていると堂々と宣言することはしてきませんでした。このメッセージが語られたその地で実を結ばなければ、受け入れられるわけがありません。今のところ、衰退、貧困、疫病以外にインドが世界と共有しているものはありません。我々が世界に発信すべきであるのは、古代のサストラ《ヒンズー教の学術的典籍》ではないでしょうか。さて、サストラについては、いろいろな版が出ていますが、疑い深くて偶像崇拝に酔いしれるこの世界は、それを見ようともしません。跡取りであり管理人である我々が、それに沿った生き方をしていないからです。ですから、世界中でサストラを共有しようにも、まずは私自身がそれをしっかりと保持することです。我々の非協力は、英国や西側世界を対象としてはいません。我々は英国が打ち立てたシステムに対して、非協力を行っています。物質文明と、それに附随する欲望と弱者を搾取することに協力を拒んでいるのです。我々の非協力は、自分達でつつましく暮らすことを意味します。我々の非協力とは、英国の行政に彼らの条件で従うことを拒否することです。我々は彼らにこう呼びかけます。「我々が提示する条件で我々に協力してください。そうすることが、我々にとっても、あなた方にとっても、世界にとってもよいことです」。足をすくわれることはさせません。溺れている人に、他の人が救えるはずはありません。他者を救えるようになるためにも、自分自身を救おうとしなければなりません。インドの愛国心は、排他的でも、攻撃的でも、破壊的でもありません。健康的で、宗教心に富み、それゆえ博愛精神に満ちています。インドは、生きることを学ぶ必要があります。そうして初めて、人類のために命を捧げたいと思えるようになるのです。ネコの歯の間にはさまれてしまったねずみは、なすすべもなく犠牲になったとしても、どんな功徳も得ることはできません。
 ・・・この詩人は空高く舞い上がりながら、朝早く賛美をさえずる鳥たちの美しい情景を我々の賛嘆の眼差しの前に描き出してくれます。これらの鳥は、日々の糧を得て元気を回復した羽を羽ばたかせて高く舞い上がったのです。前の晩には、血管に新しい血液が循環していました。しかし私は、力が足りなくて促されても羽を動かすことさえもできない鳥を見て心を痛めていました。インドの空の下にいる人間という鳥たちは、眠っているふりを始めた時よりも、さらに弱弱しい状態で起き上がります。何百万もの人々にとっては、永遠に続く眠れない日々であり、永遠に続く昏睡状態なのです。言語に絶する心痛む光景です。経験しなければわからないでしょう。病に苦しむこの人たちをカビールの詩で慰めることは不可能でした。飢えに苦しむ何百万もの人々は、たった一つの詩を求めています。それは、元気を与えてくれる食べ物です。彼らに食べ物を与えるのはよくありません。自分で獲得するべきです。額に汗をして働く以外に獲得する道はありません。. . . 1(ギータ3章8~16節参照)
 私にとって糸車に附随するあらゆる真理がこれらの節に書いてあります。今日のインドにおいて欠くことのできない聖なる行いです。われわれが今日のことを整えれば、明日のことは神が備えてくださいます。
ヤング・インディア 1921年10月13日

参考 ギータ 3章8~16節 (池田運訳 講談社出版サービスセンター)

 そこで、おまえも教義に即した本分の仕事を実践するがよい。仕事をしないよりは、するほうが格段にまさる。何もしなければ、体の健康も保てないのだ。
 アルジュン! 束縛を恐れて仕事を避けてはいけない。ビシヌ神に捧げる祈祷祭祀とはまったく無縁の仕事と取り組んで、人はとかく仕事に縛られがちになる。そこでおまえは俗世の執着を離れ、かの大神ビシヌ様のためにのみ真心を込めて仕事をせよ。
 アルジュン! 宇宙の草創期に祭祀によって生類を創造したあと、創造神ブランマ様は生類にこう告げられたのだ。--
 祭祀を行い、末永く繁栄せよ。祭祀は、望みのものをすべて与えるのだ。
 祭祀をとおして、おまえたちは天人の繁栄を助長し、天人はおまえたちの繁栄を助けるだろう。お互いがそれを義務と心得、天人と生類が力を合わせて、至福の世界を目指すがよい。
 祭祀によって力を増した天人は、お前達が求めなくてもかならず豊かな福徳を施してくれるだろう。天人の授ける福徳をただ浪費するだけで、なにも返さない者は紛れもない泥棒だ。
 口に入れるものは神饌のおさがりだけという善人はあらゆる罪障から解放されるが、肉体を養うためにのみ食う悪人は、自ら罪を食らうことになる。
 なぜなら、生類は穀物で身を育て、穀物の生産は雨によって促され、雨は祭祀に応えて降り、祭祀は伝統行事をとおして成立するからだ。
 仕事はベダから生まれ、ベダは不滅の大神から生ずる。また、万物万象に遍満する永遠不滅の大神は、常に祭祀の中に宿ると知れ。
 アルジュン! このように循環をくりかえす自然の摂理を無視し、教義に基づく本分の仕事もせず、日夜器官の快楽の追及に明け暮れる罪人は、一生を空しく生きることになる。

     When a house is on fire, all the inmates go out, and each one takes up a bucket to quench the fire. When all about me are dying for want of food, the only occupation permissible to me is to feed the hungry. It is my conviction that India is a house on fire, because its manhood is being daily scorched, it is dying of hunger because it has no work to buy food with. Khulna is starving not because the people cannot work, but because they have no work. ...Our cities are not India. India lives in her seven and a half lakhs of villages, and the cities live upon the villages. They do not bring their wealth from other countries. The city people are brokers and commission agents for the big houses of Europe, America and Japan. The cities have co-operated with the latter in the bleeding process that has gone on for the past two hundred years. It is my belief based on experience, that India is daily growing poorer. The circulation about her feet and legs has almost stopped.  And if we do not take care, she will collapse altogether.
     To a people famishing and idle, the only acceptable form in which God can dare appear is work and promise of food as wages. God created man to work for his food, and said that those who ate without work were thieves. Eighty per cent of India are compulsorily thieves half the year. Is it any wonder if India has become one vast prison? Hunger is the argument that is driving India to the spinningwheel.  The call of the spinning-wheel is the noblest of all. Because it is the call of love. And love is swaraj. The spinning-wheel will “curb the mind” when the time spent on necessary physical labour can be said to do so. We must think of millions who are today less than animals, who are almost in a dying state. The spinning-wheel is the reviving draught for the millions of our dying countrymen and countrywomen. “Why should I, who have no need to work for food, spin?” may be the question asked. Because I am eating what does not belong to me. I am living on the spoliation of my countrymen. Trace the course of every pine that finds its way into your pocket, and you will realize the truth of what I write. Swaraj has no meaning for the millions if they do not know how to employ their enforced idleness.  The attainment of this swaraj is possible within a short time, and it is so possible only by the revival of the spinning-wheel.
     I do want growth, I do want self-determination, I do want freedom, but I want all these for the soul. I doubt if the steel age is an advance upon the flint age. I am indifferent. It is the evolution of the soul to which the intellect and all our faculties have to be devoted. I have no difficulty in imagining the possibility of a man armoured after the modern style making some lasting and new discovery for mankind, but I have less difficulty in imagining the possibility of a man having nothing but a bit of flint and a nail for lighting his path or his matchlock, ever singing new hymns of praise and delivering to an aching world a message of peace and goodwill upon earth. A plea for the spinning-wheel is a plea for recognizing the dignity of labour.
     I claim that in losing the spinning-wheel we lost our left lung. We are therefore suffering from galloping consumption. The restoration of the wheel arrests the progress of the fell disease. There are certain things which all must do in all climes. The spinning-wheel is the thing which all must turn in the Indian clime for the transition stage at any rate and the vast majority must for all time.
     It was our love of foreign cloth that ousted the wheel from its position of dignity. Therefore I consider it a sin to wear foreign cloth. I must confess that I do not draw a sharp or any distinction between economics and ethics. Economics that hurt the moral well-being of an individual or a nation are immoral and therefore sinful. Thus the economics that permit one country to prey upon another are immoral.  It is sinful to buy and use articles made by sweated labour. It is sinful to eat American wheat and let my neighbour the grain-dealer starve for want of custom. Similarly it is sinful for me to wear the latest finery of Regent Street, when I know that if I had but worn the things woven by the neighbouring spinners and weavers, that would have clothed me, and fed and clothed them. On the knowledge of my sin bursting upon me, I must consign the foreign garments to the flames and thus purify myself, and thenceforth rest content with the rough khadi made by my neighbours. On knowing that my neighbours may not, having given up the occupation, take kindly to the spinningwheel, I must take it up myself and thus make it popular.
     I venture to suggest to the Poet, that the clothes I ask him to burn must be and are his. If they had to his knowledge belonged to the poor or the ill-clad, he would long ago have restored to the poor what was theirs. In burning my foreign clothes I burn my shame. I must refuse to insult the naked by giving them clothes they do not need, instead of giving them work which they sorely need. I will not commit the sin of becoming their patron, but on learning that I had assisted in impoverishing them, I would give them a privileged position and give them neither crumbs nor cast-off clothing, but the best of my food and clothes and associate myself with them in work.
     Nor is the scheme of non-co-operation or swadeshi an exclusive doctrine. My modesty has prevented me from declaring from the house top that the message of non-co-operation, non-violence and swadeshi is a message to the world. It must fall flat, if it does not bear fruit in the soil where it has been delivered. At the present moment India has nothing to share with the world save her degradation, pauperism and plagues. Is it her ancient Shastras that we should send to the world ? Well, they are printed in many editions, and an incredulous and idolatrous world refuses to look at them, because we the heirs and custodians do not live them. Before, therefore, I can think of sharing with the worlds I must possess. Our non-co-operation is neither with the English nor with the West. Our non-co-operation is with the system the English have established, with the material civilization and its attendant greed and exploitation of the weak. Our non-co-operation is a retirement within ourselves. Our non-cooperation is a refusal to co-operate with the English administrators on their own terms. We say to them, “Come and co-operate with us on our terms, and it will be well for us, for you and the world.” We must refuse to be lifted off our feet. A drowning man cannot save others. In order to be fit to save others, we must try to save ourselves. Indian nationalism is not exclusive, nor aggressive, nor destructive. It is health giving, religions and therefore humanitarian. India must learn to live before she can aspire to die for humanity. The mice which helplessly find themselves between the cat’s teeth acquire no merit from their enforced sacrifice.
     The Poet presents to our admiring gaze the beautiful picture of the birds early in the morning singing hymns of praise as they soar into the sky. These birds had their day's food and soared with rested wings in whose veins new blood had flown during the previous night. But I have had the pain of watching birds who for want of strength could not be coaxed even into a flutter of their wings.  The human bird under the Indian sky gets up weaker than when he pretended to retire. For millions it is an eternal vigil or an eternal trance. It is an indescribably painful state which has to be experienced to be realized. I have found it impossible to soothe suffering patients with a song from Kabir. The hungry millions ask for one poem--invigorating food. They cannot be given it. They must earn it. And they can earn only by the sweat of their brow. . . 1
     In these verses is contained for me the whole truth of the spinning-wheel as an indispensable sacrament for the India of today.  If we will take care of today, God will take care of the morrow.
Young India, 13-10-1921
1 Here followed in the source verses 8 to 16 from the Bhagavad Gita, Ch. III.

2010年1月 3日 (日)

見習おう日本の侍を

 「資本家の側が自発的に余分なものを差し出して、その結果あらゆることで本物の幸せを手に入れる」

 最近ウッタール・プラデッシュ州を旅しましたが、そこでは、若い大地主や徴税請負人の何人かが簡素な生き方を取り入れ、愛国的な熱意に燃えて、小作農たちの負担を軽減しようとしていました。このような彼らの様子を見まして、これ以上に嬉しいことはありませんでした。大地主の多くが、残虐行為を働いているらしいという恐ろしい話を何度も聞かされていたからです。彼らが地租を取り立てるやり方は、合法的であろうとなかろうと、あらん限りの方法を用いて、小作農をただ単に農奴の身分に貶めてしまっていると聞かされていました。ですから、とても多くの若い徴税請負人のこのような態度に接することができたのは、私にとって嬉しい驚きでした。
 しかし、さらに、改善し、完全にしていく余地はまだ残されています。彼らのもっとも優れた人と比較しても、小作農との間には、まだ大きな溝が横たわっています。彼らは実行したほんの些細なことに対しても、恩着せがましさがいっぱいであり、自己満足に浸ってしまっているのです。しかし、何をするにしても、小作農らに彼らの取り分を返しただけのことです。それも遅きに失した返却です。これが事実なのです。ヴァルナ制度(カーストの母体)を忌まわしく誇張した結果、いわゆるクシャトリヤ階級が優越感を持つようになり、貧しい小作農は先祖代々の劣等な立場を自らに定められた運命として、あらがうことなく受け入れていくようになったのです。
 インドの社会が、平和な道筋に沿って本物の進歩をなしていくのであれば、有産階級の人たちに、次のように明確に認識してもらわねばなりません。つまり、小作農たちにも自分たちと同じ魂が宿っており、自分たちが富を所有しているとしても、そのことで貧しい人たちより優れているわけではないということをです。日本の貴族階級の人たちがやっているまさにそのように、自分たちを管財人と見なすべきです。すなわち、自分たちの被後見人である小作農らの利益をはかるためにこそ、富を所有しているのだと考えるのです。そうすれば、小作農の労働の手数料として妥当な金額を超える小作料を請求することはないでしょう。
 現在は、有産階級の人々の全く不必要な華やかさや贅沢と、小作農の汚らしい住居や終わりのない貧しさとが、全く釣り合っていません。そして、これらの小作農に囲まれて、有産階級の人々が暮らしているのです。ですから、大地主の鑑になるつもりであれば、すぐさま、小作農が今現在担っている負担の大部分を取り除いてあげるはずです。小作農と親しくつきあうようになり、彼らの要求を知り、彼らに希望を抱かせてあげることでしょう。彼らから命そのものを奪う絶望しかなかったところに、希望をもたらすのです。この人は、小作農が公衆衛生や健康管理に無知であることに満足しません。小作農が生活必需品を確保できるように、自ら清貧を貫くでしょう。この人は、自分の配下にいる小作農らの経済状況を学び、学校を設立し、自分の子どもと小作農の子どもを共に教育することでしょう。村の井戸や貯水池をきれいにし、小作農に、道路を掃き、トイレをきれいにすることを、自らがこの必要な労働をやるという手本を示すことで教えるでしょう。小作農らが自由に遠慮なく使えるように、自分の庭を開放するでしょう。この人は、自分の楽しみのために所有している不要な建物の大半を病院や学校などとして使用するようになるでしょう。資本家階級が、時代の徴候を読みとり、彼らの所有物すべてに対して神が与えた権利に関する考えを改めさえするならば、驚くほど短期間のうちに、今日村と呼ばれている70万の糞の山が、平和と健康とくつろぎの住処へと変貌を遂げることでしょう。
 資本家が日本の侍を見習うならば、失うものは実は何もなく、得ることばかりであると、私は確信しています。次の2つ以外に選択肢はありません。つまり、一方は、資本家の側が自発的に余分なものを差し出して、その結果あらゆることで本物の幸せを手に入れることであり、他方は、全くの混乱状態です。資本家が手遅れにならないうちに目覚めないならば、あるいは目覚めても事態がよく飲み込めないならば、この事態が差し迫っています。強力な政府が投入する軍隊の力を持ってしても回避できない混乱に、飢えた何百万もの人々が、この国を陥らせることになるでしょう。インドが、この災難をうまく回避できることを、私はずっと願っています。ウッタル・プラデッシュ州で若い徴税請負人の何人かと親しく会うことができ、その希望を強めることができました。
ヤング・インディア 1929年12月5日

     Nothing during the recent U.P. tour pleased me more than the way in which several young zamindars and talukdars had simplified their lives and fired by patriotic zeal were easing the burden of the ryots. I had heard fearful accounts of the alleged atrocities of many zamindars and their mode of levying cesses, legal and illegal, on all conceivable occasions with the result that the ryot was reduced to serfdom pure and simple. The discovery therefore of so many young talukdars was a very pleasant surprise to me.
     But the improvement has to go further and be thorough.  There is yet even among the best of them a wide gulf between themselves and the ryots. There is yet a great deal of patronizing and self-satisfaction over the little that has been done. The fact is that whatever may be done is no more than a belated return to the ryots of their due. The hideous caricature of varnashrama is responsible for the air of superiority that the so-called Kshatriya assumes and the status of inherited inferiority the poor ryot submissively recognizes as his deserved lot in life. If Indian society is to make real progress along peaceful lines, there must be a definite recognition on the part of the moneyed class that the ryot possesses the same soul that they do and that their wealth gives them no superiority over the poor. They must regard themselves, even as the Japanese nobles did, as trustees holding their wealth for the good of their wards, the ryots.Then they would take no more than a reasonable amount as commission for their labours. At present there is no proportion between the wholly unnecessary pomp and extravagance of the moneyed class and the squalid surroundings and the grinding pauperism of the ryots in whose midst the former are living. A model zamindar would therefore at once reduce much of the burden the ryot is now bearing, he would come in intimate touch with the ryots and know their wants and inject hope into them in the place of despair which is killing the very life out of them. He will not be satisfied with the ryots’ ignorance of the laws of sanitation and hygiene. He will reduce himself to poverty in order that the ryot may have the necessaries of life. He will study the economic condition of the ryots under his care, establish schools in which he will educate his own children side by side with those of the ryots. He will purify the village well and the village tank. He will teach the ryot to sweep his roads and clean his latrines by himself doing this necessary labour. He will throw open without reserve his own gardens for the unrestricted use of the ryot. He will use as hospital, school, or the like most of the unnecessary buildings which he keeps for his pleasure. If only the capitalist class will read the signs of the times, revise their notions of God-given right to all they possess, in an incredibly short space of time the seven hundred thousand dung-heaps which today pass muster as villages can be turned into abodes of peace, health and comfort. I am convinced that the capitalist, if he follows the Samurai of Japan, has nothing really to lose and everything to gain. There is no other choice than between voluntary surrender on the part of the capitalist of superfluities and consequent acquisition of the real happiness of all on the one hand, and on the other the impending chaos into which, if the capitalist does not wake up betimes, awakened but ignorant, famishing millions will plunge the country and which not even the armed force that a powerful Government can bring into play can avert. I have hoped that India will successfully avert the disaster. The privilege I had of meeting intimately some of the young talukdars in the U.P. has strengthened the hope.
Young India, 5-12-1929

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