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2009年7月10日 (金)

なぜ暴力に反対するのか

投稿者は次のように主張します:
 貴方はなぜ暴力に反対なのですか。暴力行為の全てが、ヒムサー(殺生)の現われだとお考えですか。殺人や暗殺を目にしたり、この世界で毎日のように行われている徐々に血を吸い取っていく行為を黙って見ていると、ある種の戦慄、同情、嫌悪感を感じるのは、奇妙なことでしょうか。流血の革命が成功すれば、この世界の悲惨の大部分は改善されると信じる場合に、武力に頼ってはいけないのでしょうか。. . . この世界の支配者はあまりにも冷酷になってしまっていますから、貴方や慈悲心というものを理解するには、もう一度子どもにもどらねばなりません。そのことがお分かりではありませんか。彼らが生まれつき悪人であると言っているのではありません。しかし、彼らの悪人ぶりは、物理的現実ですから、彼らが努力したところで、それを変えることはできません。

 仮に支配者が悪人であるとしても、必ずしも一から十まで生まれつきそうなのではありません。多くの場合、彼らを取り巻く環境のせいです。ですから、彼らのやり方を変えることができると、私は希望を持っています。投稿者が書いておられるように、支配者が自分でやり方を変えることができないのは、全くその通りです。しかしもし、彼らが周囲の環境に牛耳られているのであれば、彼らを殺すことも仕方がないとは、決して言えません。そうではなくて、周囲の環境を変えることによって、彼らを変えねばなりません。しかし、環境というのは、他でもなく、支配者を現在のような状態にしてしまっている我々、人民なのです。このように、彼らは、今現在の我々の集合体が肥大したものに過ぎません。この私の主張が健全であれば、支配者に対する暴力はすべて、我々自身に向けた暴力となります。これは自殺行為です。私は、自殺したくありませんし、私の近隣の仲間にも自殺してほしくはありませんので、私自身は非暴力を旨とすることにしましたし、仲間にも同様に勧めます。
 さらに言わせていただけるなら、暴力で一人か数人の邪悪な支配者を仮に排除できても、ラーヴァナ(「ラーマヤナ」に登場する悪の王、たくさんの頭を持っていた)の頭と同じで、他の者がすぐに現われてとって代わることになります。と言いますのも、根っこが他の場所に残っているからです。その根っこは、我々の中にあります。もし、我々が自分たちを正しくしていくなら、支配者も自動的に改善されていきます。
 投稿者は、非暴力の人には感情がなく、「この世界で毎日のように行われている徐々に血を吸い取っていく行為」を黙って見ていると思っているようです。非暴力は受動的力ではありませんし、投稿者が考えるようなふがいないものでもありません。真理を非暴力とは別のものだと考えるのであれば、真理を除けば、非暴力が世界で最も活発に働いている力です。それが衰退することは決してありません。暴力は、成功するように見えるだけです。暴力が、いついかなる場合でも成功すると、主張した人はいません。非暴力は、すぐに形となって現われる結果を約束することは、決してありません。手品ではありません。ですから、失敗に見えても、それはすべてそう見えるだけです。暴力を信じる人は、殺人鬼を殺し、そうやって殺したことを自慢します。しかし、殺人そのものを根絶するすることは決してありません。殺人鬼を殺すことで、殺人を追加していますし、おそらくはさらなる殺人を招く結果をもたらしたでしょう。報復の法則に従うことは、悪を増殖させることです。
 非暴力の人は、愛を通して殺人鬼に影響を及ぼします。殺人鬼を罰することで、すでになされてしまった殺人を取り消すことはできません。しかし、寛大な優しさによって、殺人鬼に自らの行為を悔いてもらい、彼の人生の向きを全く変えてしまうことを期待するのです。非暴力の人は、いつもひとりでに、自分自身にサーチライトを向けます。そして、他者が自分にこうしてくれたらよいのにと思うことを、自分が他者にするのが、最善の行為であることを発見します。もし、自分が殺人鬼であれば、その狂気のために殺されたいとは思わないでしょう。むしろ、悔い改めて自分自身を取り戻していく機会がほしいと思うでしょう。自分が創造できないものを破壊してはならないということも、この人にはわかっています。人と人の間を裁くことができるのは、ただ神だけです。
ハリジャン 1934年9月21日

WHY AGAINST VIOLENCE?
A correspondent argues:
Why are you against violence? Do you think that every act of violence is an expression of himsa? Is it not strange that we should feel a kind of horror, pity and disgust when we see a murder or assassination, and silently witness the slow sucking of blood going on every day in the world? If one believes that a successful bloody revolution would ameliorate a good deal of misery in the world, why should he not resort to arms? . . . Don’t you realize that the rulers of the world have become so callous that, to understand you or humanity, they must again become children. I don’t mean to say they are born bad. But their badness is a physical fact and, in spite of themselves, they cannot alter it.

  It is because the rulers, if they are bad, are so, not necessarily or wholly by reason of birth, but largely because of their environment, that I have hopes of their altering their course. It is perfectly true, as the writer says, that the rulers cannot alter their course themselves. If they are dominated by their environment, they do not surely deserve to be killed, but should be changed by a change of environment. But the environment are we--the people who make the rulers what they are. They are thus an exaggerated editon of what we are in the aggregate. If my argument is sound, any violence done to the rulers would be violence done to ourselves. It would be suicide.  And since I do not want to commit suicide, nor encourage my neighbours to do so, I become non-violent myself and invite my neighbours to do likewise.
  Moreover, violence may destroy one or more bad rulers, but, like Ravana's heads, others will pop up in their places, for, the root lies elsewhere. It lies in us. If we will reform ourselves, the rulers will automatically do so.
  The correspondent seems to imagine that a non-violent person has no feelings and that he is a silent witness to the “slow sucking of blood going on every day in the world”. Non-violence is not a passive force nor so helpless as the correspondent will make it out to be. Barring truth, if truth is to be considered apart from non-violence, the latter is the activest force in the world. It never fails. Violence only seemingly succeeds, and nobody has ever claimed uniform success for violence. Non-violence never promises immediate and tangible results.  It is not a mango trick. Its failures are, therefore, all seeming. A believer in violence will kill the murderer and boast of his act. But he never killed murder. By murdering the murderer, he added to it and probably invited more. The law of retaliation is the law of multiplying evil.
  A non-violent man will act upon the murderer through his love. He cannot, by punishing the murderer, undo the murder already committed. But he hopes by gentleness to get the murderer to repent of his deed and change the whole course of his life. A non-violent man always and automatically turns the searchlight selfward and discovers that the best course of conduct is to do unto others as he would have others to do unto him. If he was the murderer, he would not like to be killed for his madness but would like the opportunity of mending himself. He knows, too, that he must not destroy what he cannot create. God is the sole Judge between man and man.
Harijan, 21-9-1934

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コメント

日本は科学費をなくすべきだ。日本における科学のあり方が根本的にまちがっているのだ。科学は日本では大学と企業が独占している。国民にはまったくない。そして、日本の科学は、科学による支配という要素が非常に強い。本来科学には支配ということはあってはならない。けれども、日本の科学はまず支配することから始まる。そして支配することが大部分を占めるのだ。これは大学でも企業でも、科学は支配し強奪することなのだ。大学教授は政府やマスコミなど対外的には西洋人のふりをして西洋人の仮面をかぶって西洋の建前を述べたてる。しかし、大学の部局に戻ると教授は暴力団の組長に戻るのだ。別の人の研究を教授が強奪して全部教授がやったことにしてしまう。そして実際に科学費をつかって教授が何人もの秘書を強姦したり愛人にしたりする現場をいくつも見てきた。そして、科学費をつかって教授や助教授らが学生の就職を破壊したり結婚を破壊してきた。婚約者の家にまで教授と部局員が大勢でおしかけて学生の結婚を破壊することが日本では科学となっているのだ。こんな日本の科学は全くいらない。国民のカネで、強姦や脅迫・暴行・殺人などが教授と部局員によって平然と犯されている日本に科学などまったくいらない。生まれてくるはずだったのに殺された子供のためにも、日本の科学者を絶滅させなければならない。

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