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2009年2月

2009年2月24日 (火)

良薬口に苦し

楽しいことなら何でも有益というわけではありません。年齢を重ねた今でも、私にとって楽しいことの全てが、私に益であるわけではないことを、私はわきまえています。ですから、いろいろな場合に、年上の人の助言を求めます。さらに言えば、だからこそ、師を見つけて、その師の庇護と援助を求めるという伝統を、我々は昔から維持してきていたのです。修行者は、師の前にひれ伏し、師が自分たちの歩みを導き、師が選ばれることで頭を満たしてくださるようにと懇願したものです。今日では、あらゆることを指導できる師は存在しませんし、自らを完全に明け渡すという問題が生じることもありません。しかし、ここ(ガンジーが開設した国民学校)では、教師が皆さんを他でもない、正しい道に導いてくださっていることを確信する必要があります。最初は、辛く感じることも多くあります。しかし、長い目で見れば、有益なのです。このような確信を持って、辛いことにも耐える必要があります。これが私の皆さんへの助言であり、祈りです。
Navajivan, 18-2-1925
(英国政府が設立した学校をボイコットするように求めたガンジーが、インドの学生のための学校を設立し、糸紡ぎなどを中心課題としたが、有利な就職先を求めて英国政府系の学校に復学する者があとを絶たなかった。そのため、なぜこの学校にとどまることが大切かを説いたスピーチの一部)

  Whatever is pleasant is not always beneficial.  Even now when I have grown old I know that everything that pleases me does not prove beneficial to me.  We do therefore consult elders on many occasions.  It is for this reason again that we have the ancient tradition of finding out a guru and seeking his shelter and support.  A student used to prostrate himself before the guru and entreat him to guide his steps and stuff his brain with anything that he chose.  These days an all-around guru is not available and the question of complete surrender does not arise.  However, you need here the assurance that the teachers are leading you along the right path and not otherwise.  Many things are bitter in the beginning but beneficial in the long run.  With this faith you should swallow a bitter pill.  This is my advice as well as prayer to you.
Navajivan, 18-2-1925

2009年2月 8日 (日)

非暴力は愛の実践

 アヒンサー(非暴力・不殺生)に関する私の考えを、私は変えていません。命を創造する力が人には与えられてこなかったのですから、小さな虫であっても、生きているものを殺す権限はないのです。私は今でもそう信じています。破壊する特権は、あらゆる生命を創造された創造主にだけ、備わっているのです。私は、アヒンサーを次のように解釈します。つまり、アヒンサーとは、害をなさないという単なる消極的な状態でなく、愛するという積極的な状態です。悪をなすものに対しても、善で報いるということです。しかし、悪をなす者を助けて、悪を行い続けるようにしてあげるということではありませんし、受動的に受け容れて、悪を甘受するということでもありません。その逆で、愛するとは、アヒンサーを積極的に働かせる状態を言います。悪を行う人とは袂を分って、その人に対抗しなければなりません。たとえ、その人を怒らせ、その人の肉体を傷つけることになるとしてもです。例えば、息子が恥ずべき生活を送っているとすれば、彼の生活の面倒を見続けることで、彼の恥ずべき生き方を支援してはいけません。もし私が息子を愛しているなら、あらゆる支援を断ち切るべきなのです。たとえその結果、息子が死ぬようなことになってもです。そして、息子が悔い改めるなら、彼を抱きしめて迎えてやることが、その同じ愛によって求められます。しかし、物理的な強制力を用いて、息子によい行いをさせようとしてはだめです。これが、放蕩息子の物語が教える教訓だと私は考えます。
 非協力とは、受動的な状態ではありません。非常に積極的な状態です。物理的な抵抗や肉体的暴力よりも、積極的な行為です。受動的抵抗というのは、誤った呼び方です。私は非協力という言葉を、非暴力でなければならないという意味で使用しています。ですから、懲らしめてやろうとか、報復しようとか、恨み、悪意、敵意が存在したりはしないのです。つまり、私がダイヤー将軍に仕え、無実の人々を銃撃するのに協力するとすれば、それは罪となります。 しかし、彼が病気で苦しんでいるならば、私が彼を介護し元気にしてあげるのが、許しと愛の実践となります。この文脈では、ナラヤン氏は協力と言うそうですが、私はその言葉を用いることはできません。私は、政府の犯罪行為をやめさせる目的で、政府に協力したことは何千回もあります。しかし、一度として、そのような犯罪行為を続けさせるために協力したことは絶対にないのです。もし私が政府から与えられた称号を保持していたり、その便宜を受けていたり、裁判や学校を支援していたりしたら、悪事行為を働いたことで私は有罪となります。ジャリアンワーラー(ダイヤー将軍に夜大虐殺が行われた場所)での無実の人々の血で染まった手から多大な富を受け取るよりも、托鉢の方が私には良いことです。私の兄弟、7000万人の宗教的感情をみだらに傷つけた人々から甘い言葉をかけてもらうよりも、逮捕状の方がはるかにましです。
 私はナラヤン氏とは全く逆に、ギーターを読み取っています。良いことのためなら暴力を用いるようにと、ギーターが教えているとは、私は全く思いません。もっぱら、我々の心の中の戦いを描いているのです。神の啓示を受けた作者が、歴史上の出来事を用いて、自分の命を危険にさらしても、義務を果たすという教訓を語り聞かせているのです。結果にとらわれることなく、義務を遂行することについて語っています。なぜなら限りある存在である我々は、肉体という枠の中に閉じ込められており、自分以外の行動を制御できないからです。ギーターは、光の力と闇の力を識別し、両者がいかに相容れないものであるかを明らかにしています。
 ・・・非協力運動を進めている人々は、自己を抹消し、自分を犠牲にし、自らを清める過程において、道徳的影響を及ぼしたいと希望しています。ナラヤン氏が、ダイヤー将軍の虐殺と非協力の行動を同じ次元で語っていることに、私は驚きました。彼の意味していることを理解しようと、精一杯努力しましたが、理解できなかったと、申し上げるしかありません。
Young India, 25-8-1920

  I have not changed my views on ahimsa. I still believe that man not having been given the power of creation does not possess the right of destroying the meanest creature that lives. The prerogative of destruction belongs solely to the Creator of all that lives. I accept the interpretation of ahimsa, namely, that it is not merely a negative state of harmlessness but it is a positive state of love, of doing good even to the evil-doer. But it does not mean helping the evil-doer to continue the wrong or tolerating it by passive acquiescence---on the contrary, love, the active state of ahimsa, requires you to resist the wrong-doer by dissociating yourself from him even though it may offend him or injure him physically. Thus if my son lives a life of shame, I may not help him to do so by continuing to support him; on the contrary, my love for him requires me to withdraw all support from him although it may mean even his death. And the same love imposes on me the obligation of welcoming him to my bosom when he repents. But I may not by physical force compel my son to become good---that in my opinion is the moral of the story of the Prodigal Son.
  Non-co-operation is not a passive state, it is an intensely active state---more active than physical resistance or violence. Passive resistance is a misnomer. Non-co-operation in the sense used by me must be non-violent and therefore neither punitive nor vindictive nor based on malice, ill will or hatred. It follows therefore that it would be sin for me to serve General Dyer and co-operate with him to shoot innocent men. But it will be an exercise of forgiveness or love for me to nurse him back to life, if he was suffering from a physical malady.  I cannot use in this context the word co-operation as Sir Narayan would perhaps use it. I would co-operate a thousand times with this Government to wean it from its career of crime, but I will not for a single moment co-operate with it to contnue that career. And I would be guilty of wrong doing if I retained a title from it or---as service under it or supported its law-courts or schools.  Better for me a beggar's bowl than the richest possession from hands stained with the blood of the innocents of Jallianwala. Better by far a warrant of imprisonment than honeyed words from those who have wantonly wounded the religious sentiment of my seventy million brothers.
  My reading of the Gita is diametrically opposed to Sir Nara-yan's.I do not believe that the Gita teaches violence for doing good.  It is pre-eminently a description of the duel that goes on in our own hearts. The divine author has used a historical incident for inculcating the lesson of doing one's duty even at the peril of one's life. It inculcates performance of duty irrespective of the consequences, for, we mortals, limited by our physical frames, are incapable of controlling actions save our own. The Gita distinguishes between the powers of light and darkness and demonstrates their incompatibility.
  ・・・Those who are engaged in forwarding the movement of non-co-operation, hope to produce a moral effect by a process of self-denial, self-sacrifice and self-purification. It surprises me that Sir Narayan should speak of General Dyer’s massacre in the same breath as acts of non-co-operation.  I have done my best to understand his meaning, but I am sorry to confess that I have failed.
Young India, 25-8-1920

2009年2月 5日 (木)

非暴力の有効性

私は若者を始め、インドの人々に、もっと優れていて、もっと有効なやり方を謹んで提示してきました。つまり、魂の力、真実の力、愛の力を用いた方法です。もっと良い言葉がないために、受動的抵抗と呼んできました。私は指導者の方々に、このやり方を十分かつ大胆に採用してくださいと、この重大な局面において、お願いしています。自らが苦しむことが伴います。初めから終りまで、それだけです。世界のどの政府も、罪のない人々を投獄したり、彼らに乱暴を働いたりし続けることはできません。英国政府が、このようなことを続けるわけには行きません。不正を行っている時でさえも、道徳的見地から、自分たちを正当化したがるものです。ここに、このやり方の大いなる秘訣、特徴があります。
総督の秘書にあてた手紙より 1917年7月7日

I have presented to the youths and to Indians in general in my humble way a better and more effective method and that is the method of soul force or truth force or love force which for want of a better term I have described as passive resistance. And I am asking the leaders to adopt this method fully and boldly at this critical juncture. It involves self-suffering and that alone throughout. No government in the world can afford continually to imprison or molest innocent men; the British Government cannot afford it. It is its great secret and character that even when it does wrong, it seeks to justify it before the world on moral grounds.
LETTER TO PRIVATE SECRETARY TO VICEROY
BANKIPORE,  July 7, 1917

2009年2月 2日 (月)

平等な分配を実現するには

 実のところ、平等な分配とは、各自が本来の必要を満たすだけの資力をそれぞれが持ちながら、それ以上を持つことは決してないということです。例えば、ある人は消化の働きが弱く約100グラムの粉で作ったパンで十分ですが、別の人には400グラムのパンが必要だとします。その場合、どちらもがそれぞれの必要を満たしたらよいのです。このような理想を実現するには、社会秩序の全てを再編する必要があります。非暴力を基盤にした社会であれば、これより外の理想を育むことなどできません。目標を達成することは、おそらくできないでしょう。しかしそれでも、目標を胸に抱いて、目標に近づく努力を絶え間なく続けるべきです。我々が目標に向かって進んでいく度合いに応じて、満足と幸福が得られます。そして、その度合いに応じて、非暴力の社会の実現に貢献できるのです。
 ある個人がこのような生き方を取り入れることに不都合は何もありません。他の人々が始めるのを待つこともありません。そしてある行動規範を守ることが一人にできるのであれば、同じことを数人が集まってすることも問題なくできます。誰でも正しい道を歩むのに、誰か他の人が始めるのを待つ必要は全くないという事実を、私は強調しなければなりません。目標を完全には達成できないと思われると、人は始めることを躊躇するものですが、実際に進歩を阻む障害物となるのが、このような心持ちです。
 では、非暴力を通して、どのようにしたら平等な分配を達成できるかを考えて見ましょう。まずは、この理想を自分の存在意義の一部とした人が、個人の生活において必要な変更を行います。この人は、インドの貧困に思いをはせて、必要を最小限にまで減らすでしょう。不正なやり方でお金を稼ぐこともしません。投機に走ることもありません。この人の家屋は、新しい生活スタイルにふさわしいものとなります。生活のあらゆる分野が、自制されます。自分の生活においてできることをすべてやって初めて、その人は自分の仲間や、近隣の者にこの理想について語ることができます。
 実際、平等な分配という考えの根底には、富める者が所有する余分な富については、信託制度を採用するという考えがあります。といいますのも、この考えに従えば、近隣の者よりも1ルピーでも多く所有することなどありえないからです。このような理想をどのようにして実現したらよいでしょうか。それも非暴力のやり方でです。富める者に所有物を手放すように強要したらよいのでしょうか。これをするには、当然のことして暴力に訴えるしかありません。このような暴力行為を働いたのでは、社会の利益になりません。社会は、貧しくなるでしょう。と言いますのも、どのようにして富を蓄えるかを知っている人々の才能が失われることになるからです。ですから、非暴力のやり方のほうが明らかに優れています。富める者は、富を所有したままで、個人的な必要として筋の通る分については、彼はそれを個人のために用い、残りについては、財産管理者として行動し、社会のために使用します。この主張においては、管理者が誠実であることを前提としています。
 自分は社会に奉仕するために存在していると考えられるようになれば、社会のために稼ぎ、社会の利益のために用いるようになります。そうなれば、その人の稼ぎは純粋なものになり、その人の事業はアヒンサー(非暴力・不殺生)で成り立ちます。さらに、人の心がこのような生活様式に向かえば、社会に平和革命がもたらされます。苦い悲しみを経ずにこれができます。
 人の性質にそのような変化があったと歴史が記録しているだろうかと、問われるかもしれません。そのような変化は、個人単位ではたしかにありました。社会的規模での変化を指摘することは、おそらくできないでしょう。しかし、それは、これまでのところ非暴力を大規模に実践した経験がないというだけにすぎません。アヒンサー(非暴力・不殺生)は、個人にとっては非常に優れた武器であり、だからそれを活用するのも個人に関わることに留めるべきであるという間違った信仰を私たちはどういう訳か持つに至っています。実際のところ、これは事実ではありません。アヒンサーは、何と言われようと社会に関係しています。この真実を人々にわかってもらうために、私は努力もし、試行錯誤をしてきました。驚くべきこの時代に、事柄や考えが新しいから価値がないとは、誰にも言えません。困難であるから不可能だと言うのもまた、時代の精神に合わないことです。夢にも考えられなかったことを日々目にしています。不可能が絶えず可能になっているのです。暴力の分野でなされる驚くべき発見に、我々はこのごろ常に眼を見張るばかりです。しかし私は、夢にも思い描かなかったような、不可能と思われるような発見が非暴力の分野でなされると考えています。宗教の歴史は、そのような例で溢れています。社会から宗教それ自体を根こそぎにしようとすれば、無駄な骨折りに終わります。万一そのようなことがうまくいくとしたら、社会は崩壊することでしょう。迷信、邪悪な慣習、その他欠点となるようなことが、時折、宗教に入り込み、しばらくの間は宗教を損なってきました。しかし、そのような汚点は、やって来てはまたどこかに行ってしまいます。しかし、宗教そのものは存続しているのです。なぜなら、この世界の存在そのものが、広い意味での宗教に依存しているからです。結局、宗教とは、神の掟に従うことだと、言うことができるでしょう。神と神の掟とは、同じことです。ですので、神とは変わることなく、今も存在し続ける掟だと言えます。本当の意味で神を見たものは誰もいません。
 しかしながら、精一杯努力しても、金持ちが本当に意味で貧しい人々の後見人となってくれず、貧しい人々がますます虐げられ、餓死するようなことになれば、どうしたら良いのでしょうか。この困難な問題の解決法を探していく中で、非暴力の非協力、市民の側の不服従ということを思いつきました。これこそ正しい、確実に効果を上げられる手段です。金持ちは、社会の貧しい人々の協力がなければ、富を蓄えることができません。人は最初から暴力に馴染みがあります。もともと動物としてそのような力を受け継いでいます。このような四本足(動物の状態)から二本足で歩ける状態(人間)へと進化して初めて、アヒンサー(不殺生)がいかに力強いものであるかを人はその心で知るようになりました。この考えはゆっくりとではありますが、着実に人の中で育っています。これが貧しい人々の間に浸透し、広がっていけば、彼らの立場は強くなり、自分たちを飢餓の縁にまで追い込んでいる不平等からどうすれば非暴力のやり方で自由になれるかを知るようになります。
 非協力や市民的不服従については、もはや書く必要はないでしょう。ハリジャンの読者であれば、これらについてや、その成果についてよくご存知だからです。
セワグラム、1940年8月19日
 ハリジャン 1940年8月25日

     The real implication of equal distribution is that each man shall have the wherewithal to supply all his natural needs and no more. For example, if one man has a weak digestion and requires only a quarter of a pound of flour for his bread and another needs a pound, both should be in a position to satisfy their wants. To bring this ideal into being the entire social order has got to be reconstructed. A society based on non-violence cannot nurture any other ideal. We may not perhaps be able to realize the goal, but we must bear it in mind and work unceasingly to near it. To the same extent as we progress towards our goal we shall find contentment and happiness, and to that extent too shall we have contributed towards the bringing into being of a non-violence society.
     It is perfectly possible for an individual to adopt this way of life without having to wait for others to do so. And if an individual can observe a certain rule of conduct, it follows that a group of individuals can do likewise. It is necessary for me to emphasize the fact that no one need wait for anyone else in order to adopt a right course. Men generally hesitate to make a beginning if they feel that the objective cannot be had in its entirety. Such an attitude of mind is in reality a bar to progress.
     Now let us consider how equal distribution can be brought about through non-violence. The first step towards it is for him who has made this ideal part of his being to bring about the necessary changes in his personal life. He would reduce his wants to a minimum, bearing in mind the poverty of India. His earnings would be free of dishonesty. The desire for speculation would be renounced. His habitation would be in keeping with the new mode of life. There would be self-restraint exercised in every sphere of life. When he has done all that is possible in his own life, then only will he be in a position to preach this ideal among his associates and neighbours.
     Indeed at the root of this doctrine of equal distribution must lie that of the trusteeship of the wealthy for the superfluous wealth possessed by them. For according to the doctrine they may not possess a rupee more than their neighbours. How is this to be brought about? Non-violently? Or should the wealthy be dispossessed of their possessions? To do this we would naturally have to resort to violence. This violent action cannot benefit society. Society will be the poorer, for it will lose the gifts of a man who knows how to accumulate wealth. Therefore the non-violent way is evidently superior. The rich man will be left in possession of his wealth, of which he will use what he reasonably requires for his personal needs and will act as a strustee for the remainder to be used for society. In this argument honesty on the part of the trustee is assumed.
     As soon as a man looks upon himself as a servant of society, earns for its sake, spends for its benefit, then purity enters into his earnings and there is Ahimsa in his venture. Moreover, if men's minds turn towards this way of life, there will come about a peaceful revolution in society, and that without any bitterness.
     It may be asked whether history at any time records such a change in human nature. Such changes have certainly taken place in individuals. One may not perhaps be able to point to them in a whole society. But this only means that up till now there has never been an experiment on a large scale on non-violence. Somehow or other the wrong belief has taken possession of us that Ahimsa is pre-eminently a weapon for individuals and its use should, therefore, be limited to that sphere. In fact this is not the case. Ahimsa is definitely an attribute of society. To convince people of this truth is at once my effort and my experiment. In this age of wonders no one will say that a thing or idea is worthless because it is new. To say it is impossible because it is difficult, is again not in consonance with the spirit of the age.Things undreamt of are daily being seen, the impossible is ever becoming possible. We are constantly being astonished these days at the amazing discoveries in the field of violence. But I maintain that far more undreamt of and seemingly impossible discoveries will be made in the field of non-violence. The history of religion is full of such examples. To try to root out religion itself from society is a wild goose chase. And were such an attempt to succeed, it would mean the destruction of society. Superstition, evil customs and other imperfections creep in from age to age and mar religion for the time being.  They come and go.  But religion itself remains. Because the existence of the world in a broad sense depends on religion. The ultimate definition of religion may be said to be obedience to the law of God.  God and His law are synonymous terms. Therefore God signifies an unchanging and living law. No one has ever really found Him.
     If, however, in spite of the utmost effort, the rich do not become guardians of the poor in the true sense of the term and the latter are more and more crushed and die of hunger, what is to be done ? In trying to find the solution to this riddle I have lighted on non-violent non-co-operation and civil disobedience as the right and infallible means. The rich cannot accumulate wealth without the co-operation of the poor in society. Man has been conversant with violence from the beginning, for he has inherited this strength from the animal in his nature. It was only when he rose from the state of a quadruped (animal) to that of a biped (man) that the knowledge of the strength of Ahimsa entered into his soul. This knowledge has grown within him slowly but surely. If this knowledge were to penetrate to and spread amongst the poor, they would become strong and would learn how to free themselves by means of non-violence from the crushing inequalities which have brought them to the verge of starvation.
     I scarcely need to write anything about non-co-operation and
civil disobedience, for the readers of Harijanbandhu are familiar with
these and their working.
SEVAGRAM, August 19, 1940
    Harijan, 25-8-1940

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